いらっしゃいませ

にほんご べんきょう してきて ください
いらっしゃいませ。ずっと試運転中です。予告なく変更しまくるつもりが仕様変更については手付かずです。

2018年5月30日水曜日

猫のいる部屋 6


鈍い私もなんとなくこの世界のことが飲み込めて来た。この街で友人を積極的に作っていたなら、もっと早く情報収集できて理解が早かったかもしれない。いいや、友達が多かろうが少なかろうが同じことだ。自分の知人のみんながみんな、ここへ来るとは限らないから。人はそれぞれに思い入れのある場所が違う。
頭の中を整理して、私はウエダ夫人の家を訪ねることにした。いつでもいらしてね、というお言葉に甘えて。
「まあ、嬉しいわ。ご近所に長いおつきあいのお友達はたくさんいるけど、ニューカマーとはお知り合いになれるチャンスが少ないですものね。新しいお友達は大歓迎よ。」
ウエダ夫人はウキウキと私を家に招き入れてくれた。物静かなご婦人という印象しか持っていなかったけれど、昭和の初期に海を渡って異国で暮らす勇気を思えばとても好奇心旺盛なアグレシッブな女性だったのかもしれない。
「聞きたいことがあっていらしたんでしょう?」紅茶を淹れて一息ついてからウエダ夫人は何でも聞いてちょうだいと促した。
「プロフェッサー ウエダはお元気ですか?」一度しか面識はないがウエダ夫人のご主人がこの学園都市の大学教授だったのは日本人駐在員の家族なら誰でも知っていた。
「あの人はね…私はてっきりここなんだと思ったんだけど、あの人には違ったみたいね」ふふふ、とチャーミングな笑顔でウエダ夫人は笑った。
やはりスズコさんのところと同じだ。ご主人とは一緒に暮らしていないらしい。年の頃から言って、ご主人がご存命とは思えないから待っていれば来るというものでもなさそうだけど?
「別の場所にいらしてるんでしょうか?」
「そうね、ことによると日本の生まれ故郷かもしれないわね。とても故郷のことを懐かしんでいたから。」
「ええっと、これは自分が一番思い入れのある場所に…来る、ということですか?」
「そうね、思いの強さがそうさせるのかしらね。私はね、日本はそれはもう懐かしくて思い入れもあるんだけれど、何と言ってもここはあの人と長く暮らした場所ですものね。一番ここが好きなんだわ。」
「離れてからどれくらいになりますか?場所が違ってはぐれてしまうと、もう会えないのでしょうか?」
「ここでは時間なんて無意味だわ。待っていれば来ますよ、きっと。」

どうしてみんな、達観したようなことを言うのだろう。死んだ時に一旦諦めがつくのだろうか。私は確かに若い頃にこの土地での生活を楽しんだけれど、やっぱりそれは夫がいたから楽しかったのだ。ここが死後の世界なのだとしたら「早くここへ来い!」とは確かにこの状況では願いにくいことだから「今すぐ!」とは思えないけど、もしも夫が亡くなってから別の場所に行かれしまうのだとしたら、それはちょっと切ないな。
観光農園の思い出
私がプロフェッサーウエダと会ったのは一度きり。リタイア後の隠居生活を楽しむためにご夫妻はこの街から少し離れた山間部のアップルヒルという場所に小さな果樹園を手に入れて細々と果樹園経営を始めていた。秋の収穫時期にお誘いを受けてその果樹園を訪れた時にオーバーオール姿のプロフェッサーウエダが収穫したリンゴを磨く機械の入った作業小屋を案内してくれたことがある。
とても暖かみのある穏やかな老人で夫婦が寄り添ってリンゴが磨かれていく様子を愛おしそうに眺めていたのを昨日のことのように思い出す。紅葉で金色に輝くアップルヒルの風景と相まって彼らは私の理想の老夫婦の姿だったのだ。
それなのに今は一緒にいられないだなんて。

2018年5月27日日曜日

猫のいる部屋 5


未練がましく会えることを期待してスズコさんの家の近辺を散歩している時だった。不意に後ろから声をかけられた。
「スズコの友達の…ええっとスーマ?」
振り返るとスズコさんの旦那さんのアルフレドがいた。
「そうです!スズコさんの友達の!お久しぶりですアルフレド!」
「ああ、良かった。スーマは知ってる街の名前と一緒だから思い出せましたよ。」
今度は流暢な日本語でアルフレドは話し始めた。
日系3世の彼は出会った頃にはイッセイの祖父母の話す日本語のおかげで聞きとりは可能だけど日本語を話すことはできないと言っていた。だけど帰国後3年して遊びに行った時には驚くほど日本語を話すのが上手になっていて私たち夫婦を感心させた。アルフレド曰く「妻のスズコは日本人だから年老いて英語が話せないような状況で病気になった時には僕が医師との橋渡しをしないといけない。そんな時に彼女の話す細かい症状とかを把握できないと困ると思って日本語を一生懸命勉強いたしました。」
これを聞いた時、私は思わず夫の脇腹をドンと突いて「今の聞いたか?!日本の男は自分が妻の世話になることは想定しても自分が妻の世話をするなんてこれっぽっちも想像してないでしょ?これがアメリカの男性との違いだよ!」
結局、私が夫を看取る日はこなかったのだな、と今は申し訳なく思う。
「スズコさんはお元気ですか?すっかりご無沙汰してしまって…」
「よろしければうちでお話でもしませんか?」
アルフレドはバックヤードに通じる裏木戸を開けて懐かしい友人の家へと私を先導した。
アメリカ規格としては小ぶりで簡素に該当するが日本規格なら十分な大きさの住み心地の良さそうなお家。品のいい調度品で揃えられたダイニングでよくお茶をご馳走になった。今日はその横のリビングで小さな庭(それすら日本人にしたら広い)を眺めながら聞かれるままに離れ離れになってからの話をお互いにしあった。今更だが自分が死ぬくだりを話す時になって初めて「あれ?」と異変に気付いた。この記憶ってどこから来たものかしら?今って一体いつなのかしら?



「じゃあ、タケシは一緒じゃないんですね。きっとまだ来ないんですね。」
アルフレドはしみじみとした表情で言った。
「スズコは?彼女はどうしてますか?やはりその…ここに来ていないんですか?」
「スズコは先に行ったんですよ。僕はてっきりここで会えると思ったのですがね。…もしかしたらパリに居るかもしれません。」
懐かしむような顔でアルフレドは遠い庭を見つめた。日系人のアルフレドと日本人のスズコさんの出会いはお互いが留学していたパリだったと聞いたことがある。人は若い時に過ごした街にその魂のひとかけらを置いてくるという。魂のかけらはスズコを懐かしいパリの街に引き寄せたかもしれない。私がこの街に引き寄せられたように。
「パリには行かれないのですか?スズコさんに会いに…」
「いずれ行くかもしれません。でも今はここで彼女が来るのを待ってみます。もはや時間は無いようなものですからね。」
サマータイムの夕暮れは遅い。すっかり話し込んでしまったことに気づいて私は慌てて席を立ち猫の待つ部屋へ帰った。

2018年5月24日木曜日

猫のいる部屋 4


ラボの見知らぬ学生はぶっきらぼうな人で、何度か話しかけてみたけど自分の実験以外のことは興味なさそうに短い返事をするだけで会話が繋がらない。
「ネルソン教授は最近来てないですね。出張ですか?」
「さあね、…ネルソンのことは知らないな」
「あなたとは初めてお会いしましたよね?私は須磨と言います。」
「ああ、初めて見るね…知り合いじゃないことは確かだ。」
むわー、同室の人がコレでは辛すぎる。一緒に仕事してたサイモンやミチコはどこへ行ってしまったんだ?
打ちひしがれて夫のラボを覗く。以前、挨拶を交わしたドナルドの顔でも見てみるか。しかし夫が帰って来ない話とか、イマイチ英語でうまく説明できる気がしない。せめて夫の留学生仲間のペータがいてくれれば…オージーの彼は陽気な若者で言葉の壁をものともせずにコミュニケーションを図ってくれる人だった。通じるかどうかは別問題なのだが。
実験室の様子はどこも一緒
ペータはいなかった。フランス人留学生のべべもオランダ人留学生のヒノエもいない。唯一私の英語を根気よく聞き取ってくれる親切な日系4世のポーラも…やはりいない。
こうして考えてみるとアメリカでつるんだ友人のほとんどは留学生や移民の人たちだ。アメリカ人はいわばホームグラウンドに居るだけあって、どうしても仲間同士のおつきあいが忙しくなる。となると、結局付き合いやすいのは留学生同士になる。日系人のポーラだけはアメリカ人だけど、彼女は祖父母世代が生粋の日本人だったりするので日本人が間違いやすい英語表現を上手にフォローして聞き取ってくれるからとても話がしやすい。
彼女に話を聞いて欲しかったな…と諦めて帰りかけるとそこへドナルドがやってきた。
「何か質問があるかな?」
待ってましたよとばかりに向こうから切り出してきた。
Hi,ドナルド…タケシはここに…いないかしらね?」
「まだ見てないな〜。もしかして先に来ちゃったの?」
「?!う、うん。先に来ちゃった…みたい。」
「じゃあ、そのうち来るよ。待ってれば来る。時間はないようなものだからね。いつか解決するさ。家で待ってれば?」
「わかった。そうする。」
実際には他にも早口で色々と言われたけど、さすがに全部は聞き取れない。家で待てとの言葉を渡りに船とばかりそそくさ退散。
帰りは以前、ウエダ夫人に出くわしたスーパーにも寄ってみた。だけど今日は彼女には会えなかった。
本当に待っていればそのうち帰って来るのかな?ここでの生活は確かに楽しかったけど、夫がいないと楽しみも半減。暖炉に火を入れる季節までには帰ってきてくれるかな。暖炉は夫の仕事なのに、一緒に薪がはぜる音を聞くのが楽しみだったのに…。暖炉の横に腰掛けてぼんやりしてるとオトヒメが額をコツンと私の腕に押し付けて来た。
「待っていれば来るってさ」と頭を撫でてやるとオトヒメは「そうだとも!」とばかりに満足そうに伸びをした。

2018年5月23日水曜日

猫のいる部屋 3


帰国する日本人駐在員が処分に困って置いて行った家財道具などがウエダ夫人の家のガレージには山積みになっていて「好きなものを持って行きなさい」と言ってくれた。そこでいただいたお椀は日本に持ち帰って実に30年も普段使いに使用したりなんかした。
「あらあら、そうですか。あなたはここを選んでくださったのね。とても嬉しいわ。」
ウエダ夫人はそう言ってアメリカ人らしいオーバーアクションで私の両手を取って包み込むように握ってから優しくハグしてくれた。
「こちらにはいつ頃いらっしゃったのかしら?」
サンフランシスコ地震(ロマプリータ地震)の後でした。たったの2年しかいられなかったのですがここでの暮らしは懐かしい思い出です。」
言いながら目が潤んだ。そうだ、この土地は若い頃のたった2年を過ごした大切な思い出の地だった。
「…そうですか。あなた、お越しになったばかりかもしれませんね。またいつでも会いにいらしてくださいね。」
久しぶりに知り合いと日本語で話しができた高揚感でぼうっとしたまま私は店を出た。引っ越してきたばかりの頃は夫以外の人とは話をする機会もなく、たまに日本人会のサロンでお喋りした後は帰路で何度もその日の会話を反芻したものだった。
アパートの駐車場
今もウエダ夫人の言葉を反芻しながら、まるで転居直後の何もわからずに困惑してる人を気遣う様子だったなと思った。実際にそういう人の世話を長年続けていらした方だし、初めてお会いした日には私も同様の気遣いをいただいたっけ。
惰性でここでの生活を続けてはいるものの、夫の長い不在など困惑する事態になっているのは事実。というか、夫が帰ってこない事態なんか、もっと困惑してしかるべきなのにあまり動揺してない自分に戸惑い始めた。

帰り道に少しだけ回り道して近所のスズコさんの家へ行ってみる。彼女は日系人のご主人と結婚してこの土地に住む少し年上の日本人女性。気が合ったし、互いの家を行き来してとても良いお付き合いをさせていただいた。帰国してしばらくは手紙のやり取りをしたし、帰国後3年してから再度渡米した時には遊びに行ったこともあるが、その後30年の時の経過と共に疎遠になってしまった。そんな自分の不義理が恥ずかしくて何となく「そのうち会いに行ってみよう」と先延ばしにしていた場所だけど、ウエダ夫人と話した勢いを借りてスズコさんにも会いに行ってみよう!


スズコさんの家は少し雰囲気が違っていた。大学のラボ同様に知らない人がいたりするかも…と思うと呼び鈴は押せない。しばらくモジモジしながら家の周りを未練がましく眺めていたけど、不審者と思われても何なのでその日は結局諦めて帰宅した。
駐車場に車を入れるとオトヒメが駆け寄ってきた。一緒に部屋へ戻って「結局、私の話し相手はお前だけだね」と話しかけるとオトヒメは満足そうに前脚をぺろんと毛づくろいして寝そべった。

2018年5月20日日曜日

猫のいる部屋 2


アパートの駐車場に車を停めるとオトヒメが駆け寄って来た。オトヒメはこのアパートに暮らす猫で私の数少ない友人の一人(一匹?)だ。私がまだ仕事を持たずに家で所在なく過ごしていた頃、ベランダからするりと現れて当然の顔をして私たち夫婦の部屋に入って来た猫。以来、午後のひと時を一緒に過ごす仲になった。名前はオトヒメだが彼は雄猫。彼は私の横でいつも午睡を楽しみ、引き込まれるように私も眠りこけてしまい瞬く間に午後の時間が過ぎてしまうので私は勝手にオトヒメと呼んでいた。
オトヒメは夕刻まで私たちの部屋で過ごし、日が暮れる頃そわそわしだしてドアを開けろと私に命じ自分のご主人が帰宅するのをそこで待つのが常だった。自転車で帰宅する主人の姿を認めると喜び勇んで駆け出して行く後ろ姿を羨望とともに見送ったものだった。
ベランダから現れたオトヒメ
しかし、その日オトヒメは自分のご主人の部屋には戻らなかった。そうか、飼い主の学生はもう引っ越した後だったんだ。
オトヒメと相思相愛だった飼い主は転居の際に何故かオトヒメをこのアパートに置いて行ってしまったのだった。オトヒメともお別れかと引越し風景を寂しく眺めた私だったけど、それから二ヶ月ほど経ったある日、駐車場でバッタリ遭遇したオトヒメは私と夫の元へ駆け寄って「早く、早く」と私たちを先導して部屋のドアを開けるようにせっついた。まるであの頃、オトヒメが自分のご主人相手にやっていたのと同様に。そうしてそれ以降は私たちの部屋を自分の根城に決めて、もう夕刻になっても部屋から立ち去ろうとはしなかった。
こうしてオトヒメは私たちの同居人となった。


猫と2人だけでのんびり過ごす日はしばらく続いた。季節はすっかり乾季に入って日差しが痛い。夫の不在が長いので私も「おかしい」と感じだした。夫はコールドスプリングハーバーにあるワトソン&クリック研究所での研修を受けるために単身NYに飛んでいる。夫の不在はそのためだと考えていたけど、あの研修はほんの2週間ほどだったはず。研修が終わる頃にはイースター休暇に入って私は夫と落ち合い東海岸を旅行する予定だった。私はいつになったらNYへ行くんだろう?というか、今は完全に乾季だからイースターは終わってるっぽい。そもそもね、今は四季で言うと一体いつ頃なのでしょうかね?


不審な思いにとらわれながらもこの生活は懐かしくて嫌な気持ちはしない。日々の生活は送らねばならぬのでいつものように1人でスーパーへ買い出しへ出かける。そこで私は懐かしい人と再会した。
「もしかしてミセスウエダじゃないですか?ご無沙汰しております。私は以前、大変お世話になった須磨です。」
ウエダ夫人はこの街で日本人駐在妻たちが円滑に生活するための語学教室的なサロンをボランティアで開いてくれていた日系アメリカ人のご婦人。
太平洋戦争をアメリカで体験して大変な苦労を乗り越えた日系人は畏敬の念を込めてイッセイと呼ばれる。その世代の方だ。日本語は多少怪しくなっているものの、意思の疎通が可能なので彼女からアメリカ生活の手ほどきを受けたり、サロンで人脈つくりをしたりして助けられた日本人妻はたくさんいる。
私もアパートのオーナー(この人は華僑の女性グレシャス)からミセスウエダを紹介されたので滞米生活の初期にはサロンに出入りしたものだった。バイトを始めてからはすっかりサロンからは疎遠になってしまったが。

2018年5月17日木曜日

猫のいる部屋 1

やあ、良い子のみんな!良い子かな?
病気療養中のためしばらくお休み宣言をしたものの、興が乗ったので物語みたいなものを書いてみたら、意外にも入院前に書きあがってしまったので時限式で細々とupすることにしました。物語が完結する頃には復帰できてるんじゃないかな〜という希望的観測と共に。死後の世界を私なりに想像してみました。縁起でもないと思われる向きもございましょうが、どうかご笑納ください。
では行ってみよ!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

死んだ後に目覚めるといつもの朝が来ていた。
雨季の終わりが近いカリフォルニアの空は曇天模様。カーテンを開けると明け方に降った雨に洗われた木の幹の間から薄い霧をまとった大地が見下ろせた。

もうじきアーモンドの花が咲くだろう、そう思うと心は沸き立つ。乾季と雨季しかないこの土地では、季節が変化するものだと再認識させてくれるのは雨季から乾季へ移行するこのわずかな期間だけだ。アーモンドの花が散って本格的に乾季になれば、世界はもうそれしかないと思わせるほど太陽の季節が単調に続き、次の雨季が来るまでの間大地を焼き尽くすことになる。雨季になったらなったでこれまた毎日が曇天と霧の単調な世界になる。四季で月日を測ることはこの土地ではできない。かろうじて目白押しにやって来るイベントで歳月の流れを知ることはできるけど、あまりに単調な季節の中にいると時間の流れは掴みにくい。一体自分はどの季節に向かっているのやら…と。
アーモンドの花

牛乳とオレンジジュースをそれぞれコップに注いで朝食の支度をする。冷凍したワッフルをオーブンで温めてその上のコンロではお湯を沸かす。いつもはカリカリベーコンに目玉焼きを焼いたりするけど、今朝は独りきりだから昨夜の残りの野菜スープで簡単に済まそう。コップに残った牛乳を紅茶のカップに注いで食後のミルクティーを飲み干したら、さあ、仕事に出かけるか。

大学の駐車場まで車を走らせてバイト先のラボへ。いつもと同じ朝を迎えているはずなのに、何かおかしい気がする。違和感の理由はわからないけど何かがいつもと違う。忘れ物でもしたろうか?いや、これといって持っていくものなんか無い。ラボに行くと違和感はさらに増した。いつもと違う顔ぶれ、というか知らない人が実験室にチラホラ居る。私の所属するラボは退職間近な教授の部屋なのでもともと人が少ない。あまり英語が話せないくせに遊ぶ金欲しさに就労許可証をとってここで働き始めた私にとって職場で友達を作るのはかなりハードルが高かった。積極的にアメリカ人の友達を作ろうとはしなかったことが今は悔やまれる。とはいえ挨拶くらいはできる。こんな人、居たかしら?とおっかなびっくりで挨拶すると相手も別段気に留めた様子はなく普通に挨拶を返して再び自分の作業に没頭していた。その日は教授も現れず、数少ない仕事仲間のサイモンとミチコにも会えないまま仕事を淡々と終えた。

私の仕事は午前中だけ。なので仕事を終えるといつもは隣のラボにいる夫と誘い合わせて学食で昼食をとってから帰宅するのだが、今日は夫はいないのでスーパーで買い物をして帰宅する。帰り際に夫のラボを覗くがやはりここも見たことのない人が大勢ウロウロしている。中には知った顔もいて、その人はこちらに気づいて驚いたような顔をして笑顔で両の手を挙げてくれた。ビックリしたよのポージング。その親しみを込めた笑顔にホッとしたけど顔見知り程度の人だったので軽く会釈したらそそくさとその場を離れ、会話を交わすことはなかった。
こうしていつもと同じ昼が過ぎた。

2018年5月14日月曜日

しばしのお別れ

検査結果を主治医から聞いた。その週の金曜に医療チーム全体のミーティングがあり、具体的な治療方針はそこで固められると言う。もちろんこちらの意思も尊重される。さしあたって退院時に行われた主治医の説明は検査結果の報告に止まった。
昨年の脳梗塞発生直後よりも明らかに塞がった血管。狭窄部の範囲も広がっているようで、現段階ではこう見えて血は通っているものの将来的には結局血行再建術が必要になる感じ。脳疾患のリスクを抱えたまま余生を過ごすにはまだ若すぎるでしょう、と言う話だった。検査の様子から鑑みて血行再建術は脳バイパス手術になるであろうこと、頭蓋骨周辺の血管(浅側頭動脈)もあまり良い状態ではないので私の場合は腕の橈骨(とうこつ)動脈を取り出して利用することになるかもしれない。施術範囲が広がり結構難易度の高い施術。

「そのままでもなんとかなるかもね〜」なんて検査結果になるやも知れぬと言う一縷の望みは叶わなかった。その上、今や猫のことが心配。ダメなんだろうなという予感とただひたすらに仕方がないという思いで帰路につく。仕方がない。仕方がないのだ。

お気に入りの場所でいつものように眠っているような姿の愛猫ディーと、そのかたわらで椅子にずっと腰掛けていた様子の息子を見て、ひたすら申し訳なかった。だけど一声鳴いて、様子を見に来る息子の気配を感じながらきっとディーは安心して逝けたのではないかと思う。息子には過酷な経験をさせてしまったけど、絶命の瞬間に信頼できるヒトを呼んでそれに応えてくれる相手がいて良かったと息子に謝意を伝えた。誰もいない時に独りで逝く情景は寂しすぎる。それは勝手な解釈と百も承知だが、ディーがいろんなことを教えてくれた。自分もこうやって病に倒れたとしても、それはただひたすらに仕方がないことなのだ。

近所にあったペット霊園に電話をして火葬を頼む。夕刻に弔いが可能とのことでそれまで涼しい部屋に移し、タオルに包んで花やおやつと一緒に連れてくるように言われた。夫は「何もこのタイミングで逝かなくても」と絶句していたが私はむしろ救われた。覚悟したのは自分の死だったが、おかげで心残りのないほどにディーを愛でてから別れたのだ。退院の日だったから他に予定もなく、弔いの時間まではたっぷりとお別れの時間を取れた。冷たい部屋で一緒に横たわって何度も撫でた。撫でるとゴロゴロと喉を鳴らす声が聞こえて、何度も「あれ?まさか生きてる?」と話しかけた。
涙はとめどなく溢れたけど、一緒に過ごせた幸せを噛み締めて感謝の気持ちでいっぱいだった。弔いってこういうことなんだ。
火葬の間、猫の写真を飾りたいという夫の提案でスマホの写真データを眺めた。幸せな記憶が次々とよみがえり、私は泣きながら笑顔になっていた。
自分の葬式の必要性は感じなかったけど写真くらい飾りたいと思われた時用にこっそりと遺影フォルダを作って「使うならコレ!」みたいな奇跡的な数枚を用意した。猫は実にいろんなことを教えてくれたのだ。

さて、そんなこんなでいよいよ今週、血行再建手術が行われます。
何としても今月中に退院できるよう奮闘する所存。それというのも高額療養費制度の限度額は月をまたいだ分は再び支払い金額が発生するので。←同月内に収まった医療費なら限度額以上は払わなくて済むけど、月をまたぐと二ヶ月目の限度額までの支払いが発生する。
だからこの制度利用者は一ヶ月以内に入院が収まるように予定をきっちり立てましょう。これ豆知識な。

しばらく入院生活のためにブログはお休みですが、また会う日まで。
どうぞみなさまお元気で。

2018年5月7日月曜日

カテーテル検査入院

初めての検査入院。気持ちはそわそわ。
そりゃあ開頭手術に比べりゃ時間も短時間(1〜2時間)で終わるし、体に受ける負担も少ない。
気軽に受けてみてください、みたいな話だったのにいざ受けるとなったらリスク説明があって同意書にサインを求められる。脳みその血管に管を通すわけだし全くのノーリスクというわけには行かないわな。でも気軽に勧めておいて検査予約を入れた直後の同意書サインの段階になってから死ぬこともあるとか言われると…なんだかしてやられた気分なのよわさ。今更後には引けないではないか。

そもそも脳カテーテル検査ってどんなものなのかしら。脳梗塞の入院中に何人かが入れ替わりでこの検査のために同室になった。皆一泊二日の短い期間だけど、人によっては傷口が痛いと訴え続けたり、一晩中気持ちが悪いと言う人もいた。
検査前には止血のためのテープを貼るので剃毛してくるようにと言われた。でもどこまで剃ればいいの?とか疑問は尽きない。こんな時は魔法の箱に相談だ!
検索するとカテーテル検査の様子を実体験した人のブログから垣間見ることができる。
まずは剃毛は病院によって言うことが違うみたいだが概ね鼠蹊部を中心に止血テープを貼る位置に毛が無ければそれでいいらしい。脳梗塞の時にこの鼠蹊部テープは経験があるのでなんとなく検討はついた。要するに全部剃る必要はないということ。万が一不都合がある場合は施術前に看護師さんがなんとかしてくれるはずだからあまり深く考え込まずにショリショリしましょう
カテーテルを通す穴を開ける際に痛み止めのための局所麻酔をするのですが、これがチョーーー痛いと聞いていた。覚悟を決めて臨んだけどそうでもなかった。手順としては鎮静剤のガスマスクをはめられてこれのせいで酔っ払ったような気分になり、その間に局所麻酔をされたのであまり気にならなかった。むしろ鎮静剤のおかげでお酒を飲んだ時みたいになったので下戸の人ならもしかしてこれが気持ち悪くてダメだったのかな?と思った。
看護師さんが鎮静剤を入れる時に「少し眠くなりますよ」と言ったので「あ、じゃあ寝てていいんですか?」と聞くと施術中に指示が出るから完全に寝るのはやめてくださいと言われた。難しい。MRIの最中でも寝てしまう体質なので、ムムム。
酔い心地で施術開始。管が通っている感覚なのか時折鼻の奥がスーッと冷たくなる。造影剤を入れるとカーッと熱くなる。息を止めて〜と指示された時だけ言うとおりにして、後はふわふわと酔っ払いのように横たわるだけ。寝ているわけじゃないんだけど、時折いびきをかいてしまって焦る。これは筋肉が弛緩しているのか舌が気道に落ち込んでいびき音を出しているっぽい。施術後もこれはしばらく続いて病室で休んでいると不意に「ぐごっ」といびきをかいて気まずい思いをした。
そんなこんなで検査は終了。主治医が止血作業をする間、雑談もできる。

検査で死んだり重篤な後遺症がでることもあると聞いていたので、検査入院の前に私は遺書みたいなものを書いていた。基本的には家族に感謝の意をしたため、どこに何があるかとか、各種パスワードの類を提示して遺された人が困らないようにしておいた。興が乗ったので辞世の句までひねり出して準備万端整えていた。
家を出る時にはこれが最後かもしれないと覚悟して猫たちにも挨拶。存分に撫でてやり、声かけをして思い残しを無くしてから出かけた。
なんてことはない、検査は無事に済んだ。翌朝、退院の準備を整えて検査結果の報告を待つ間に夫も迎えに来てくれた。その夫に珍しく息子からメールが届く。
「今すぐ帰って来て。大声で鳴いてその後、猫が動かなくなった」

ああ、神様。昨日覚悟を決めてした挨拶が最後になるなんて。私じゃなくてあの子だったなんて。突然死ぬってこういうことなんだ。

2018年5月4日金曜日

病院へ行こう

退院後は日常生活をバタバタと送り、あっというまに三ヶ月経過。約束していたMRI検査を受けに行って、これでやれやれ一段落と思っていた私が甘かった。
検査後の診療で示された画像には、前回よりも狭窄部位が一層やせ細ってしまっている右脳の血管が写っている。右脳の血流が実際にはどうなっているのかを調べる必要があると言われた。
放射性物質を注射して脳内に流し込み、その動向を追跡して血の巡りを確認するという。あー、シンチレーションカウンターって放射線使った実験を昔やったなー。微生物に放射性物質与えて代謝の様子を調べるやつ。あれを自分の体でやる日が来るとはな…。
放射性物質注入という話の時点で拒否反応を示す人も中にはいるようだが、自分が微生物相手にやってきたことなので抵抗はなかった。てゆーか、こんなところで因果応報?
母親はヒロシマ被爆者だし、今更放射能でどうこうは思わない。検査そのものは興味もあって受けることはやぶさかではないのだが、しかし検査後の治療となると話は別だ。
医師は丁寧に今後の予想される流れについて説明してくれた。退院の際にかいつまんで聞かせてくれた話を再度ここで繰り返してくれる。
脳内の内頚動脈が塞がる原因不明の病気。塞がった血管の代わりに毛細血管が発達して血流を補い、もやもやとした陰影に見える微細血管群を形成する。しかし本来細い血管に無理をさせるので脳出血のリスクも高くなるし細い血管のせいで脳梗塞リスクも増す。要するに突然死の可能性が高くなる病気。原因不明だから治療法はないが対処療法として血行再建手術が行われる。(血行再建術の適用には各種ガイドラインがあるっぽい)

血流が確保できていれば良いが、血流検査の結果いかんでは血行再建術の必要がある。その際はカテーテル検査をして実際の血管の状況を見極めて、その上でどのような治療に当たるかを検討する。カテーテル手術で済む場合もあるし、事によると開頭手術で脳の内外の血管を繋げる場合もある。
ざっとこんな流れ。すでに工場のラインに乗せられた気持ちで、しかしながら検査をしないことには始まらんと思い速攻で検査予約を入れる。血流確保が確認できてれば当面は済む話なのだ。
検査で自分の置かれた状況を把握するのはいいだろう。だけどそれと大仰な治療を施すかどうかは別問題。突然死の可能性が高い病気と言われても、人はいつかは死ぬようにできている。死ぬ時というのはいつだって誰にとっても突然なんだから。
治療をしなければ突然死ぬかもしれないけど、死の直前まで何食わぬ顔で普段の生活ができるのであればそれは本望だ。嗚呼、私が愛したあの猫のように!
(注:この段階では愛猫はまだ存命)もし治療を受けることで100まで長生きできたとしても、体に負担をかけてまで日々衰弱しながらじっくり時間をかけて死を迎えるのであるなら意味を見出せない。それに治療というのはそう簡単なことではないと思うから逆に命を縮めることだってありうるのだ。
自然に任せるわけには行かないのだろうか?
「あんた血管が閉じてる段階ですでに体に負担かけてるわけだからさ」と夫には呆れられ、「猫だって腎不全の時に輸液をいれて治療したさ」と説得され、手術を拒否りそうな私を警戒した夫はシンチグラフ(血流検査)の診断結果を聞く時に付き添ってきた。

シンチ画像はこんな感じ
赤いのは血流ブンブン
黒いのは…しーんとしてる
結果は右脳のやつ、サボってやがる。サーモグラフのように映し出された血流は右側真っ黒。てゆーか、私は左半身をどうやって動かしているんでしょうかね?
この画像を見て説明を受けてそれでもなお「このまま何もしないという選択はありますか?」という質問をしたら夫に「この状況でバカなのー!」と怒られた。
でも医師は「そういう選択もあります」と言ってくれた。あくまでも患者の意思は尊重されるらしい。むしろそう言ってもらえたことで決心はついた。
次の段階であるカテーテル検査を受けることにして、これはもう完全に工場のラインに乗ったな、とベルトコンベアーに乗って流れていく自分を想像しながら病院を後にした。