いらっしゃいませ

にほんご べんきょう してきて ください
いらっしゃいませ。ずっと試運転中です。予告なく変更しまくるつもりが仕様変更については手付かずです。

2014年2月23日日曜日

素敵な故意の忘れ方

あなたに聞いてみたいのは 素敵な恋の忘れ方 by 薬師丸ひろ子
「素敵な恋」を忘れたかったのか、「素敵な忘れ方」を知りたかったのかその辺は謎。夫婦喧嘩の話を引っぱりたくはなかったが、酔った夫が手に負えなくて困る奥さんは意外と多いと知って、恥ずかしながら帰って参りましたっ。

酒は万病のもと ?
酔っぱらいのやっかいな所はその狼藉が酔った時限定なこと。やられた方は冗談抜きで困ってるのに、本人は酔いが覚めると記憶から抜けるのかあるいはバツが悪いからなのか何も無かったことにしやがる。そうしてまた、酔うと同じことの繰り返し。酔ってる時はもちろん、酔いが覚めた時ですら狼藉について話し合いを持つことは至難の技。まあ話し合っても大概こういうことは平行線ですがね。
結局は主婦仲間に愚痴って慰められて忘れた頃にまた旦那がやらかして再び愚痴って…「あの夫婦またやってるよ」と見られるのがオチなので酒癖の悪い旦那を持つ女房はこのスパイラルにかなり苦しめられることになる。

ええ、わかりますともそんな女房族の苦しみ。とにかくこの手の問題は解決しないのよ。繰り返されるのよ。それこそが一番の苦しみなのよーーー。「旦那さんは貴女に甘えてるのよ」と慰められても、そんな甘えん坊将軍はお断りだ。仏の顔も三度までというのに、たかだかお前さんごときの女房が何で仏さま以上の徳を持っていると思うのか、そりゃとんだ勘違いだっつーの。
てなわけで、私なりの解決方法を記すものなり。それは…忘れること。この一語につきる。

長い結婚生活でそれはもう書くのもイヤになるくらい酔った旦那から絡まれて酷い目に遭わされてきましたよ。この蓄積がより一層、同じ轍を踏み続ける旦那を許せない気持ちにさせる。飲み会と聞いただけで良い顔ができないのはこの蓄積のため。なのに飲み会前に予防線を張って苦言を呈すれば、理解のない悪妻として何故かこちらが咎められるという不本意な状況に立たされる。これでは今まで頑張り続けた妻側が可哀想すぎるし、本当にクソ面白くないことでありんす。
なので「終わっちまったことはもう、しょーがねーやぃ」と思って前をのみ見て歩きましょう。思い出すたびに不愉快になるだけだからね。そのかわり、こちとら旦那と違って同じ轍は踏まないぜ。次にやらかしたらコレさせてもらうからね、という言質をとりましょう。敵は酔ってるから誘導しだいで容易くウンと言う。覚えてないとか言われたってそんなの関係ない。覚えてられないくらい酒飲む奴が悪い(←つか、この時点でもう恐くて嫌なんですケド…)。どうせまた絶対にやらかすのは過去の経験で反吐がでるくらい承知の助だから、交換条件の交渉をするのにこんなに楽勝な相手はいない。

ちなみに次回の酔いつぶれ必至飲み会(そういうのが存在すること自体、もうダメ人間なんだけど^^; )の時には私は予め避難させていただく予定。私が戦線離脱しても文句が言えないくらいのことを旦那は繰り返し繰り返し、繰り返しやらかしてくれたので出来る事だ(子どもが大きくなったからというのもある。小さい子どもを抱えて困ってる奥さん達は…これは本当に過去の自分を振り返っても胸の痛む問題だわ。逃げ場がないのよね…)。というわけで目下の私は旦那の次回の飲み会が少しだけ楽しみになっている。温泉旅行しちゃおっかな〜と絶賛検索中。

十年も前に読んだアメリカのベストセラー本に『ベストパートナーになるために』というのがありまして、この本を参考に私が実感として体得したのが
妻は夫の世話を焼きすぎないように
気が向いたら世話して気が向かなかったら世話しない
自分だけの楽しみを自分でみつける
とまあ、そんな感じの事。男という生き物は女が気をまわして世話してる間はそれを当然と思ってしまう。そういう意味では若い頃の私は酔った旦那を相手にし過ぎていたと言える。全く相手にしないのは夫婦としてどうなのよって感じではありますが、シュフの気まぐれ風に相手してる分には旦那にも適度に緊張感やありがたみ?! が生じるらしいです。もう一点、重要課題として旦那にお願いしたことを断られても文句を言わない事、というのがあった。旦那の拒否を快く受け入れることで、結果的に旦那に心の借りを作らせるのが長い目で見ると有効なんだそうな(ちなみにこの本はジョン=グレイ著で、今気がついたけど翻訳が故大島渚監督。この本の翻訳をすることになった経緯を知りたいわ)。

余談
酔って帰宅する旦那の対処法に疲弊していたある一時期、「先にこちらが酔っ払ってしまえ〜」という方策を試した事がある。結果的に夫婦で迷惑な奴になるだけだったので、この作戦はもう採用してないけど今から思えばこれが本当の「迎え酒」であったことよなぁ。お後の準備がよろしいようで、てけてんてんてん。

2014年2月15日土曜日

夜の散歩者

前回までのあらすじ
旦那の暴力をきっかけに流血沙汰(しかも旦那の血^^; )が起きた任侠の家。何故か一日置いてから出て行ってと頼まれた貞淑な妻のワタクシはやさぐれた素直さで夜の地元を徘徊するのだが…

結論から言えば、都会と違って田舎には24時間ファミレスなんてないんです。薄明かりを灯した空虚な店舗の前をいくつも通り過ぎながら、我が家はどんどん遠ざかる。寝静まった住宅地に明かりが灯る窓を見つけると「徹夜かしら?夜勤から帰宅したの?それともこれから早朝のお仕事?」なんて、そこで暮らす人々の生活に思いを巡らせたり。
街道は、たまに高速で走り抜けるスポーツタイプの車の他は大半が輸送トラックの列。スーパーの前では仮眠中と思しきトラックが突然エンジンを始動。同時にスーパーの搬入シャッターがスルスルと開き、凸崎パンを積んだトラックがソロソロと中へ入っていった。ああこんな時間から、いつもどこかで誰かが働いているんだ、ということを改めて認識したり…。
時計が五時をまわる頃、犬を連れた夫婦やジョギング姿の人々がチラホラしだし、遠くに電車の稼働音も聞こえ始める。駅へ急ぐ人の姿も見えて、その中に紛れ込めばもう私は怪しい人物じゃない。でも道行く人は皆、朝から目的ある人々。私だけが彷徨い歩くことしかできない夜の散歩者…。
歩き始めた当初は旦那の言葉を反芻して考えをまとめるつもりでいたのに、もはや歩くことだけが目的になっている。なんとなれば寒くて頭がまわらない。さらには立ち止まると気持ちが一つ所に集中しそうで、それは余計にシンドイことだった。歩き続けている方が、色んな方面に気持ちが飛んでむしろラク。イプセンの『人形の家』についてボンヤリ思い出したのもこの彷徨のさなか。

それは女子校に通っていた時のこと。伝統校と呼ばれるその学校は伝統的に「婦女子の自立とは」を題材に在学中に必ず『人形の家(前回参照)』についてレポート作成をすることが慣らいとなっていた(現在はちょうちんブルマーの伝統とともにコレも無くなった模様)。当時の私は「自我が芽生えても出てくことはないじゃん」「そもそも(時代背景的に)どうやって一人で生きてくつもりなんだ?その辺りお嬢ちゃんキャラはアマちゃんだな」「家庭に留まっても自己実現するくらいできるだろ」てな感じのことをオブラートに包んでレポート提出した記憶がある。
でも、今こそわかった。ノラは自己実現とか女性の自立とか、そんなの関係なしにただ、ただ旦那に愛想がつきたのだ、と。我が身を振り返って考える。
専業主婦、所によっては一時パートタイマーの私は結婚してからこっち、家庭の運営にじゅうぶんに貢献して来たつもり。独身時代が長かった旦那に「結婚したら金銭的な負担が増えた」なんて思わせたくない一心で経済的な負担も積極的に担ったし、笑っちゃうくらい貧乏だった留学中はロクな英語も喋れないくせに移民局に出向いて就労許可をとって一緒に遊ぶ金欲しさにガムシャラに働いた。
貯金が出来ない体質の旦那に成り代わり生活費から余剰金を貯めては「助けてードラえも〜ん」と旦那が泣きつく度に『功名が辻』よろしく、つと用立てて危機を逃れたことは一度や二度ではない。それだって元は旦那の稼ぎだし、じゅうぶん生活費を入れてくれてるから出来る事なのだと心得ていた。つまりそれを恩に着せたことは一度もない。私がパートで得たお金だって自分のために使ったことは一度もない。すべて子どもの教育費に供出してきたことは旦那も知っている。これすらも「二人の子どもだから当然」だし「旦那が私の小遣い分もきちんと生活費を出してくれるからできること」と心得てそのように対処してきた。
色んな時代を一緒に切り盛りして乗り越えた、そんな自負心が私にはあったのに、それなのに「出て行ってくれ」って…この家は俺のものという認識だったなんて、ご冥福を祈りつつ桜塚やっくん風に がっかりだよ!こんな事なら折にふれて恩に着せておけばよかったよ。

男ってやつは言わなきゃ分からん生き物だけど、女にだって自負心や自尊心、プライド、沽券、その手の感情を男以上に持ち合わせてる者は居るし、これを潰されたらもうぜってーに許さないと思う者も中にはおります。主婦仲間の愚痴大会で耳にもするけど、女のこうした自負心を平気でないがしろにする男のなんと多いことか。
俺の女、俺の家、俺の塩 ?!、そう思うのは勝手ですけど、それは「わたしたち」という意識で頑張ってきた女どもの気持ちとは相容れないし到底簡単に見過ごせる話ではありません。
ノラが家を出たのは、「夫婦で共に生きてきた気概や人生」が自分だけの幻想だったと思い知らされたから。それは自分に絶望したのではない。一緒に生きるはずだった旦那に失望したから出て行ったのだと今ならそうレポートに書いちゃうね。
んあ?私は家を出たりなんかしないわよ。だってここは私の家でもあるんですもの。購入の際は自分の貯金も叩いてるし、固定資産税だって毎年がっつり折半してるっつーのに、冗談じゃないわよ。私が家を出る時、それはこの家を売っぱらって綺麗に折半してから…つまり旦那もこの家を出る時だ。それこそが、わたしたち任侠の家。

追記
夫が出てけと言えば女房はサメザメ泣いてしおらしくなる、なんて想像してる人がいるとしたら、それはとんだ時代遅れだってばよ。そりゃショックも受けるし覚悟も要るけど、家売って折半したお金で生活立ち上げて、何処にどれくらいの部屋借りて…なんて具体的に画策してると新しい生活に夢も膨らんじゃったりなんかして、結構そういうことで楽しめるのが今時の女という生き者でござんすよ。ノラ@人形の家の時代とは格段に女の生き方は自由度が高くなってるんだから。(まあそれすらも、旦那は家のお金を半分渡してくれるという信頼の上で成り立つ夢想だと心得ておりますけどね。ぷんすか)

2014年2月7日金曜日

任侠の家

イプセンの『人形の家』のお話をしましょう。主人公ノラは良いトコのお嬢様育ち。長じては良いトコの奥様におさまって何不自由ない生活を送ってきた。一人の女性、一人の人間として歩んで来た人生に疑問を挟む余地などなかったのだが、ある出来事を契機に自分の根幹が揺らいでしまう。すなわち娘時代においては父親の人形であり、結婚して後は夫の人形でしかなかった自分の現実に戦慄するのだ。人形は主(あるじ)のお気に入りの間は大事にされるが、ひとたび不興を買ってそっぽを向かれると何処にも寄る辺の無い危うげな身上。危機が去り、落ち着きを取り戻した夫の心は再びノラを溺愛するのだがノラは家を出る決心をして去るのであった。
写真は本文と関係ありません

さてここから我が任侠の家。恥ずかしながら犬も喰わぬという夫婦喧嘩のお話でござる。近年、絡み酒のクセが酷くなったうちの旦那がその日もやたらと私に絡んでいた。というか、その日はちょっと尋常ない絡み方をされまして私はどつかれておりました。んで、耐えかねた私は反撃に出て旦那の頭をカチ割ってしまいましたとさ。ミャハ(>_<;)
その後、深夜におよんですったもんだした挙げ句に二人は冷戦状態に突入。ここの経緯は語るべき言葉もない。酔った旦那の黒歴史として記憶と記録に残る出来事であった(旦那は酔っぱらってたからシラを通すかもしらんが)。
んで一日おいて翌深夜を過ぎた頃、別室で寝ていた旦那が私を優しく揺り起こしていわく「出て行ってくれないか」ですと。はあぁ?
問題です
1、俺が寝室で寝たいから出ていってくれないか
2、別居したいから出て行ってくれないか
3、離婚したいから出て行ってくれないか
さて、どれでしょう?というか出て行ってくれって、ほわあぁっとぅ?!ここは私の家でもあるわけなんですが、もしかしてココは俺の家という認識ですかあああああ?
寝ぼけた頭でとつおいつ考える私を残し旦那は再び別室のソファへ退場。真意を図りかねて頭はモヤモヤ。通常なら寝直してしまう私も頭に血が上ったか眠れなくなった。午前三時を過ぎた頃、身支度を整えて家を出る。もちろん、子どもが居るので朝には帰りますけどね。私が出て行く謂れははないけれど怪我させたことは本当にすまないと思っているのでせめてものお詫びの印でとりあえず出て行ってやらぁ、すっとこどっこい、てなもんでござんす。

我が家のそばを小さな土手が走っており、10キロ内で江戸川へ出られる。行って帰れば良い運動になるだろうくらいの気持ちで膝栗毛よろしくスタスタ歩く。こんな時間には誰もおるまい、と思う一方で数年前にこの土手に遠方から死体を捨てにきた輩がいて大騒ぎになったことがあったのを思い出す。そんなことは滅多にないと信じつつ、万が一そんな場面に出くわしたら私もついでに消されちゃうわねぇ…なんて弱気になった所で、えっ、ええっ?!向こうから懐中電灯を持った人影が近づいて来るよ!お巡りさん?いや、違う。トレーニングウェアを着た男性。でもちょっとアンタ、今何時だと思ってんのよ。こんな時間にトレーニングって不審じゃない?
ドキドキしながら男とすれ違う。いつでも鞄で撃退できる体勢をとり、殺気もみなぎらせてみせたりして。心なしか相手もギクシャクした動き。やり過ごしてからほっと一息ついて考えた。コート着てお出かけ姿の殺気みなぎる中年女性が午前四時に土手歩いてる方がよっぽど不審。多分、相手の方が私なんかより余程ビビったに違いないのだ。
ああ、こんな性格(殺意的なものがサイヤ人みたいに滲み出る体質)だから出て行ってくれとか言われちゃうんだわ。憔悴して江戸川は断念。街道を歩いて開いてるファミレスで時間を潰す事にする。
この話、もしかして…つづく! ←エウレカ風

2014年2月1日土曜日

ちょこれいとがお好き

さてバレンタインデーがやってきますよと。前回はガルガンチュワサンドの話だったのでその並びでガルガンチュワのチョコの話題で今回は行ってみよう!

写真は過去に購入したガルガンチュワのチョコ画像。まずはご覧じよ。上はディグニティ、下はカラーズ。どちらもおいしゅうございました。さて皆さんはチョコレートの美味しさを何で測りましょうや?見た目、香り、舌触り、甘さ、満足感。心にかかる感覚は数あれど、おいしいチョコってどういうチョコだろうというのが今回の議題。
ディグニティ 2,100円
薄いチョココーティングの中にお酒のガナッシュ
とにかく綺麗
カラーズ 3,150円
ムースガナッシュにドライフルーツやシリアル?
お菓子(スナック)なチョコ
バレンタインのチョコを人はどうやって選んでいるのか?見栄え、値段、美味しさ。実はこの美味しさがなかなかに厄介な尺度。というのもある程度の金額をかければ、奇をてらったもの以外はマズイチョコにお目にかかることは日本においては実に稀だ。みんな一定レベルを超えればチョコはちゃんとチョコの味がする。ぶっちゃけ「ん〜〜、チョコだわ〜」という以外の感想はおいそれと出て来ない。結局は見た目(ある時はそれがパッケージ)で勝負、という世界に陥りがち。
チョコは美味しくてあたりまえ、という常識の中に生きるチョコ好きを身悶えさせるためには驚きと感動がなければやっていけないのが実情。その意味ではガルガンチュワのディグニティには近年にない驚きがあった。私はかつてこーーんなに極薄のチョココーティングを見た事がない。儚いガラス細工のように「ぱりん」とほぐれ、しかしながら決して粉砕されない(かじると亀裂が入ってチョココーティングがボロボロこぼれるのがあるでしょ、アレが無い)。中からはそれぞれ三種のガナッシュが静かに広がり口中に満たされていく。この繊細なテクスチャー。中と外のチョコの食感の絶妙なハーモニーは作り手の技術の高さを実感できる。「チョコはプロが作ればだいたいどれも一緒」という観念を大きく覆す『作品』だった。ここまでくると職人の仕事だから一粒700円でも値段に疑念を差し挟む余地がない。これを食べると工場生産ですら平気で一粒500〜700円を打ち出してくるようなブティックチョコは何してくれるんじゃ!という気分にさせられる(美味しければまあソレでもいいけど、食べ物でブランド料金みたいなのを取られるのは個人的にイヤなのよね)。
さて、驚きという点ではディグニティに軍配だが食べた後の満足感で言えばカラーズも忘れられない。エアインチョコを中に配したこちらは大きさもあるので食べ応えあり。味わいという点でも実はこちらの方が楽しいかな、というのが私の正直な感想。(何ぶん、ディグニティは小さすぎて味付けの妙を楽しむには儚すぎた^^; )。じゃあ次にもう一度買うとしたらどっち?と聞かれると…ディグニティかな。あの感動を確認するためにもディグニティよ、今ひとたびの逢うこともがな。

というわけで近々またガルガンチュワ入りしよう、と思ったら今年はまたいろいろ出してますね、チョコレート。 ボンボンショコラシリーズ(ページ差し替えました) は全6種2,205円〜。むぅ〜ん、ラインナップが色々あって悩ましい。先日スーパーの特設コーナーで帝国ホテルチョコ(工場生産系)を買ったんだけど、その中に白ごまというのがありまして、本来あまり食指が動かないこの手合いなのに食べたらそのクランチ感にカウンターパンチを喰らわされた。白ごまの香ばしさとサクサク感がクセになりそう。てなわけで「ダンディズム」狙いで今私の頭の中はイッパイなのであります。
私史上における最高峰エクレア
ガルガンチュワではコレも外せないわ〜
ああ、美味しいものが食べたい。食欲は元気のバロメーター。食い気があるのは良いことね。さてすっかりガルガンチュワ脳に陥った私だが最初の議題を思い出せ。美味しいチョコってどんなチョコ?
非日常チョコには驚きや感動が不可欠だけど、日常チョコで私が大好きなのは実はアポロチョコだったりする。あれはイイものだ〜。真面目な話、舌触りや甘さ、香料の加減、どれをとっても日本のチョコは世界に誇れるレベル(最近カリフォルニアのチョコが日本チョコに近づいてて驚いたけどね)。その中にあってアポロチョコって〜やつは、色、形、大きさ、味、全てのバランスがマッチしていて改良の余地がなく、ある意味完成型といえましょう。大きいバージョンも出てますが結局オリジナルが一番美味しい。多分、どれだけ食べても飽きない。事実、私が人生で一番食べているチョコレートがアポロ。なのに人生の最後にチョコを与えられるとしたら、やっぱりアポロチョコぷり〜ず、なのであります。
さんざん高いチョコの話をしておいてそれかい、てなもんですが美味しいって感覚はこんなものです。何度食べても飽きない。それこそが美味しいチョコ。行列に並んで一度っきりの逢瀬で終わる、そんなバレンタインのチョコは結局は非日常を楽しむだけの不倫みたいなチョコでござんすね。だから楽しいという側面もありますが^^; おっと、私は不倫とは縁の無い人間なので念のため。言ってみたかっただけなのねん