いらっしゃいませ

にほんご べんきょう してきて ください
いらっしゃいませ。ずっと試運転中です。予告なく変更しまくるつもりが仕様変更については手付かずです。

2018年4月30日月曜日

朝の気配

「あなたにはその自覚がないでしょうが、重篤な病気ではあるので我慢してください」
入院中に毎朝回診にくる医師は「早く退院できないか?」と聞く私にそう言った。
確かに、脳梗塞を起こした人は多かれ少なかれ脳細胞の一部が死んでしまうわけで、その死んだ部位に応じて何かしらのリハビリが必要になる。
以前も書いたが私は右脳の大脳辺縁系の一部がお釈迦になっている。この部位は元々何を担っているか現代科学では未知の領域のために、私の失われた能力が何だったかは未だに不明。思ったことが瞬時に口から垂れ流しになるところがあった私ですが、脳梗塞後は一呼吸置くようになったから、無くして良い能力が失われたのかな?
と、前向きに捉えて2週間分の点滴を打つためだけの入院生活を余儀なくされた。

実際には入院中に脳梗塞の原因となった病気を抱えていないかどうか色々な検査をすることになります。主に血栓発生源となる心臓疾患を持っていないかとか、動脈硬化の兆候はないかとか、そんな各種検査を日替わりであれこれと。でもさすがに2週間はかからない。私にとっては寝ている他にやることがない長い2週間になったけど、リハビリが必要な人にとっては回復に向けたがむしゃらな期間になったことと思う。後から聞いたことだけど、リハビリは問題発生時から時間が経過するほどに回復力が落ちるのだという。なるべく早い期間にできるだけ多くの能力を再獲得するべく奮闘する必要があるらしい。集中治療室を出た後、同室になったご婦人は歩行訓練が終わると次は計算問題、字を書く練習と入れ替わり立ち替わりリハビリの先生が現れて大忙しだった。大変な思いをしている人の前で「お家に帰りたいよー」と寝てるだけの私が言うのもおこがましいので以降は口を慎んだ。

脳に傷を負った重篤な病気だから、退院しても2週間は自宅療養を、つまりは脳梗塞の後一ヶ月は様子をみてゆっくりしてくださいとの由(退院の1週間後には予行演習してから職場復帰しちゃったけどね)。血液をサラサラにする抗血小板薬を処方され、流血しやすい体になっているから怪我に注意ということも言われた。その他には血管がキュッとなるような寒暖差のある場所に注意。それ以外はお酒を飲んでも飛行機に乗っても問題ないとのこと。退院前の諸注意はそれくらい。あとは脳の検査結果画像を指し示して脳血管の狭窄部位が認められ、それが今後引き起こすかもしれない病気の可能性について説明があって、三ヶ月後の経過観察検査予約をしてまずは退院。衝撃の病気告知の始まりなんて、こんな風に何気ない会話の中で予告されているのね。
この時は何の不安も感じずに、退院の喜びと共に生きていることに感謝して普段の生活へ帰って行った。

退院後に起きた変化といえば毎朝起き抜けに病院の朝食の匂いがすることくらい。入院中は病院の厨房から漂う朝食の香りで目覚めていたけど、あれは実はご飯の匂いではなく私の脳内で朝になると勝手に起きる不思議現象だったらしい。この不可解な生理現象はほどなく消えた。嗅覚を司る脳細胞は私の死んだ脳組織のそばにあることを後で調べて知った。脳みそって不思議。有り体に言って豆腐の味噌汁みたいな匂いだったんだけど…

さて今回のおさらい。入院中の諸注意としては早期のリハビリ!そして私のように寝てばかり生活になると顕著に筋肉が衰えるので筋トレに励みましょう。筋肉の衰えはてきめんに腰痛を引き起こします。私はご飯を食べてるだけで腰が痛くなったことに衝撃を受けて療養期間中はひたすら筋トレに励みました。
後もう一点。入院期間中に高額療養費の限度額適用申請を必ずやりましょうね。脳の外科処置は半端なくお金がかかるから、限度額以上の出費は是非とも抑えましょう。
入院のお金の話は こちらも参照ください 

2018年4月25日水曜日

忍び寄る兆候

前回の約束どおり、私の病気発覚の経緯について書こうと思います。参考になりますれば幸い。脳梗塞のくだりは去年の重複になりますが、せっかくタグを作ったのでまとめということでご了承ください。では行ってみよ!

今から思えば一番最初の兆候は5年前の2013年に始まる。痛みに鈍感なはずの私が明け方に耐えられないほどの首から肩にかけての激痛で目が覚めるようになった。とにかく痛くて寝てられない。なのに目が覚めても痛みのせいですぐには起き上がることもできない。そんな謎の激痛に悩まされる朝が2週間ほど続いただろうか。起きて活動を開始すれば痛みは消える。不審に思いながらもこれが老化というものか…と諦めていた。腰痛は筋力の衰えからくると小耳に挟んだのでせっせと首回りの血行を良くする運動をネットで検索しては試し、肩周りの筋トレに励み、そうこうするうちに痛みは起きなくなった。これが第一フェイズ
時期的には首の痛みに悩まされることがなくなってほどなく、日中の活動中にめまいを感じるようになった。かがみこんだり首の位置を大きく動かした時にその動きの延長線に向けて投げ出されるような遠心力を感じることがある。それでふらついて転倒するというようなものではなかったけれど「ひょ〜、また来たあれだ」とこの妙な感覚をアトラクションの乗り物のように楽しんでいた。
たまたま健康診断の時期に当たったこともあり、問診の時にその話をした。すると医師は「紹介状を書くから今すぐこの足で直ちに脳外科に行って検査を受けてください」ですと。ただならぬ様子で私は急遽病院送りになった。脳外科の先生は私の話を聞いて頭痛も吐き気もないことと、めまいの様子が脳梗塞のそれとはかなり異なる風味なので緊急性はないと判断をした。しかしながらMRIの予約をして後日検査を受けるように言われて初めてのMRIを受けることとなった。
年をとると耳の平衡感覚を司る耳石という組織が自然と剥がれて目眩が起きることがあるという。事実、初めてのMRIを控えて興奮気味の私に職場の先輩は「それね、年取るとみんななるのよ。じきに慣れちゃうから大丈夫よ」と教えてくれた。ああ、だけど果たせるかな。そう教えてくれた先輩はその数年後には私と同様に脳梗塞を起こしているではないか!目眩、おそるべし。慣れちゃダメ、絶対!
さて第二フェイズの目眩も結局は検査の結果で脳に異常なしと診断された。目眩もいつしか慣れたのか感じることはほとんどなくなった。

それから時は移って昨年の8月。脳梗塞を起こす2ヶ月前に仕事で顕微鏡を覗いた私は焦点が合わないことに動揺した。全く視点が合わないのなら深刻に受け止めたろうが、この時は4x4の四角いマスが見えるはずのスライドグラスがきっちり5x5のマスになって見えた。「5x5のスライドなんて初めて見たわ〜。ところでいつものスライドはどこにあるの〜?」と聞いて周囲の人間から「5x5マスのスライドなんて、存在しねーよ」と呆れられた。これが第三フェイズ。念のため眼科で検査をしたがその時は視覚に異常は認められずに、疲れ目でぼやけて見える日があるのだろうという結論に達した。実際に困るのは顕微鏡を覗いた時だけで普段の生活には何の支障も来たさなかった。
そうやって二ヶ月後のある朝、運命の日は来た。「寝言のろれつが回ってないよ!」という夫の謎の声掛けで私は叩き起こされた。
さすがに寝言で病院送りはおかしいから、よっぽど苦しそうにしてたとか何かあったに違いないと後日、脳梗塞を起こした私がどんな様子だったかを夫に聞くと「見たことないくらい幸せな顔をしてた。だからおかしいと思った」ですと?!
普段、明け方に話しかけられたりすると私は「まだ寝られるのに起こすんじゃない!」とメチャクチャ機嫌が悪くなるらしい。しかしいつになく滑舌の悪い寝言を言う私に声をかけた時に怒らなかった、これは一大事!というのがことの顛末だったらしい。むぅ。

なんにせよ、発見が早くて救急搬送もスムーズにいき、当直の先生の適切な対応のおかげで後遺症もなく最短コースの2週間で退院できたので巡り合わせの幸運に感謝している。
本当にありがたいことでした。その後で病気が見つかった今でも、「あの時に私の人生は終わりだったかもしれないんだ」と思えばやっぱり執行猶予があるのはありがたいことだ。せっかくの猶予期間に、結局これといった準備はできてないんだけど。

次回は脳梗塞後の入院生活とかについて書きましょうかね。

2018年4月18日水曜日

死に至る病

病気のことタグを作ったからにゃ、書いてみまする私の病気。なりたてのほやほやですがウィリス動脈輪閉塞症という病気になりました。通称、もやもや病。否、この通称は今や世界的にも通用する呼称となった為に2002年からは「もやもや病」の方が正式名称となっているらしい。そんなわけで病名を聞いた悪友達は一様に「またフザケてるよ、この人は」という反応ばかりで実に迷惑この上ない。こういう時は日頃の行いがものを言う。ミュージシャンの徳永英明がかかったことで注目されたことがあるので、知ってる人は知っているという病気なのですが、私が言うとにわかには信じてもらえない (/_;) 。

平たく言えばこの病気は脳の中の幹線道路みたいな主要血管が塞がってしまうというもの。原因は不明。だから根治する治療法もない(対処療法はある)。罹患する人も稀なので国の指定難病22番に列せられている。「レアものじゃん!」と友人に言われてからはちょっと気を良くする私。有病率は10万人に3〜10人と言われているものの、実際には無症候ながらこの病気を保有する人は10万人あたりで50人程と10年前の論文にある。MRI検査の普及で病人は確実に増えている模様。
結局ね、科学の発展のおかげで人はいらぬ事(?!)まで知ってしまうわけだ。裏をかえせば無症状で検査もしない人は自分が病気になってることすら知らずに普通に生活してある日突然、死に至る。それは若年であれば「あ〜、そんな病気だったんだ…」と知ることになるし、老年であれば「これが寿命だったんだよ…」で終わる話。そうしてみると「寿命が先か病気発覚が先か」な問題で結局、命あるものは常に死に向かってつき進んでいる。生きていることそのものが死に至る病であるとも言えるわけだ。←いや流石にそれは極論だろ
無責任にそんなことを考えていられるのも単に自分が老年にさしかかっているお年頃だからだとは思う。昨年、脳梗塞で入院した時に「ここで人生終わりだったとしても自分はやりたい放題やれて幸せな人生だったと思える」なんて書いていた。
でもこの病気は発症のピークが2極あって、私のように脳梗塞や脳出血をきっかけに発覚する40~50代のピークの他に幼少期に発覚するピークというのがある。若くして発症した人達にとっては寿命の一言で片付けるにはあまりにも残酷な話。若い子達の病気発見のきっかけはやはり脳梗塞だったり特有の発作だったりする。私はまだ発作未経験なので詳細はわからないが脱力や痺れ、頭痛が主な症状らしい。言ってみれば脳梗塞の予兆のような症状?これらと付き合いながら未来ある若者が自分の将来設計を考えなければならないのだとしたら、それはそれは大変な不安であろうと想像に難くない。そしてそうした子供を支えて成長を見守る親御さんの苦労や心配というのも並大抵のものではないと思う。

だからこの病気をネタにあまりフザケたことを書くわけにはいかない!と、思いつつも色々な確率について興味本位で調べてみた。
はるか以前に書いたことだが私は子供の頃に「ボタン恐怖症」なるものに罹患していた(これは克服済み)。恐怖というのは大げさだが、つまりは服に付いているあのボタンに激しい嫌悪感を抱いてどうしても触ることができなかった。吐き気すらして幼稚園児の頃はえづきながらお着替えしてた記憶がある。「なぜ?」と言われても説明がつかない。それが恐怖症というもの。虫が苦手という人に理由を問う者はいないが理解はされる。それなのに、それと同等にボタンが苦手という私の苦悩を理解してくれる人は周囲に一人もいなかった。人生の早い時期から絶望に近い孤独を知った私だった。
さて、そのボタン恐怖症は10万人に1人の確率で見られる症状らしい。あら、もやもや病よりレアなのね。こんなところでレアアイテムゲットしてるのに肝心な宝クジには当たらなかったりするのは理不尽ね、と思って調べて見たら…宝クジで一等を当てるのは1000万人に1人の確率。これは落雷に打たれる確率と一緒だという。おみそれいたしました
私ごときに当たらぬわけだわな。それでもジャンボ宝クジ、買いましたけどね。当たるといいな〜。PTSD(心的外傷後ストレス障害)や鬱症状の人に現金を与えると脳が受ける恐怖のダメージが多少緩和されるという報告もあるらしい。身も蓋もない研究だけど、この研究の肝は「人のストレスは幸福の記憶で塗り替えることが可能」ということらしい。
手術を控えた身の上としては先立つモノも必要ですし、幸福な記憶を携えて病気と向き合いたいものでありんす。

同じ病気を抱えた人に有益な情報を、と思ったのにそうでもない読み物になってしまったことを反省しつつ、次回は病気発覚に至る経緯なんかについて書いてみたいと思います。

2018年4月7日土曜日

ディーのこと

愛猫の「ディラックの海」が儚(はかな)くなりました。
過去に2度も死にかけて、その都度覚悟を決めていたから想像してたほどには取り乱さずに済んだ。それでも失った悲しみは大きい。猫飼いがいつか通る道だから、真摯に受け止めよう。今回は猫へ捧げる追悼文です。
カメラのレンズを肉球攻撃
先住猫である「シュレーディンガーの猫」の次にやってきた猫だから「ディラックの海」。シャルトリューという猫は協会が決めた謎ルールによって、生まれた年ごとに命名の際の頭文字が決まっている。それに則れば2008年生まれのうちの子は「頭文字D」ということでかなり安易に物理学者ポール-ディラックの名を頂戴した。
ちなみに先住猫の方は元迷い猫で「半分他所の子で半分うちの子」という曖昧な立ち位置から命名された。
仲良しと言うほどではなかったけど
仲間だった二人
ディーの性格はいたって外道。なのに極度のビビリで飼い主の私たちにもなかなか心を許してくれないところがあった。そんな彼の気持ちに変化が生じたのは皮肉にも死にかけて入院生活を経験してからだと思う。
入院はひどい尿路結石を患った時のこと。石を取り除いても何故か排尿ができず、最終的には膀胱を開いて中を洗浄することになった。この時は膀胱内壁が泥の壁で覆われたような状態になっていた。尿道を短くする手術とどちらを採るか迷った末に獣医さんと相談の上行った手術でしたがこの獣医さんの的確な判断と処置のおかげでディーは命拾いした。
この入院生活で彼は相当骨身に応えて我が家のありがたみを痛感してくれたらしく、その後は全身全霊を傾けて私たち家族に甘えてくるようになった。
入院中は毎日面会に行ったけど、初日はこちらに尻を向けたまま唸り声をあげるだけで顔も見せてくれなかった。二日目にはご飯を一切食べてくれないと看護師さんから聞かされたので口元に餌を運んで語りかけてみた。やはり唸り声を出してお怒りのご様子。「ご飯食べて元気にならないと」と声がけをして彼が喜ぶポイントの顎下を指でスリスリと優しく撫でてみた。その時、今でも忘れない驚きの光景が展開された。
唸り声を止めた彼はいつもそうするように首をぐ〜と前に伸ばして、そしてみるみるうちに目にいっぱい涙を溜めて私を見つめた。反射や基礎分泌としての涙はあっても、動物は感情から涙を流すことはないと言うけれど、あの日、確かにディーは病院のケージでお家とその付属物の家族を認識して帰りたいと切に恋い焦がれたのだと思う。
退院後の彼との生活は一変した。彼は甘えることで精一杯の愛情を表現をするようになったし、またヒトの愛情を受け止めることに満足するようになった。あの涙の瞬間、彼は愛を知り、愛することを知ったことで愛される喜びをもまた知ったのだと思う。
腕立て伏せしてるといつも乗っかってきた
病気そのものはツラいことだったけど、最終的にディーが愛し愛される喜びを知ってから逝くことができて本当に良かったと思う。生き延びた後のディーとは蜜月のような時間を過ごすことができて私も本当に幸せだった。ありがとう。
2度目に死にかけたのは慢性腎不全。このあたりのことは 以前にもちょろりと書いた 。朦朧とする意識の中、私の腕の中で弱々しく体を預けるディーを見つめながら、 こうして衰弱して最後の日を迎えるのかと覚悟した日々 。あの時、いみじくも生き物は命ある限り、生きることだけ考えると悟った私だったけれど、ディーは命の限り生きることを謳歌して逝った。腎不全自体は毎日輸液を入れることで死地を脱することができた。餌も腎臓サポート食に変えて彼はみるみる元気になって通常の生活に戻ることができた。
そうして一年近く私たちと幸せに暮らした。そして最後の日はまったくいつもの通りの日常を過ごし、いつもの場所で寝転ぼうとする手前でふいに一声鳴いてそのまま絶命したと言う。

伝聞なのはその日、私は検査入院で不在だったため。いつも通りの日常を過ごす中で逝けたらそれが理想なのに…と病院で話していた私に「それって、こんな感じだよ」とまるで道筋を示すようにディーは駆け上っていった。検査結果はそれなりに衝撃的なものだったのに、ディーのおかげで何でもないことだと思えた。生きていれば死ぬ。死ぬまで生きよう。ただそれだけのことなんだ。←別にヤケクソになってる訳ではない

病気タグを作ったので今後は脳梗塞やウィリス動脈輪閉塞症について備忘録を残していく予定。誰かのお役にたてば幸い。お楽しみ?!に〜

2018年4月5日木曜日

お土産コーナー

八日目
モーニングコールは5:45。6:45にはバスに乗って空港へ向かうので朝食はありません。
朝10時のフライトでその後、機内食で朝食となるので空腹に不安がある人は前日にスーパーで軽食を買っておくと良いでしょう。あるいは空港の待ち時間で軽食を。
出国手続きを終えてから残ったNZドルを消費するために最後の土産物を物色。
免税店「KIWI DISCOVERY」は日本円でのお買い物もオーケーとのこと。手持ちのNZドルを超えた分を日本円に換算して支払えるので綺麗にNZドルを使いきれる。
↑と、ガイドさんが「お店からマージンもらってるわけじゃありませんけどねw」と案内してくれた。でも何よりもここではチーズが買えるという話を聞きつけて鼻息荒く乗り込んだ。
チーズ25NZ$セットとブルーチーズ14.5NZ$
どれも美味しかった〜
前回のNZ旅行の心残りの一つにチーズがあった。姉の挙式後の午餐会をサインオブタカへで行った際、見事なフルコースの後にチーズプラトーが振る舞われた。どのチーズも美味しくて本当はもっと食べたかったのに満腹すぎてどうにも気持ちにお腹が追いつけなかったことが積年の恨みのように心残りだった。
今食べないでいつ食べるというのだ。夫へのお土産に是非ともNZのチーズを買って帰りたい。ここで売っていたチーズは写真の3種類。私はセットを買ったけどバラ売りもあります。ブルーもブリーも熟成としては若い感じながらもしっかりと旨味成分が入っていて良かったです。このブルーはお店の人が「自分のご褒美チーズにしてます」と薦めてくれた。

今回の旅行は行こうと思ったオプションがことごとく不成立になったのでオプション用に用意していた現金がほぼ手元に残ってる。おっと、ここで遅くなりましたが現金はいくら用意して行けばいいか?という情報を。
私が用意した現金は300NZドル。食事の時の飲み物代は一回につき10NZドル前後。母の分も払ったりなんだかんだでトータル100NZドルを飲料代に使用。展望レストランでは観光地によくある任意で買い取る写真10NZドルも興がのったので買った。残りは全てお土産に使ったことになる。その戦利品写真がコレ
右上のバター缶はおまけで貰った

マヌカハニーの小瓶 27.90
バター缶詰 12.25
ネックレス 11.30、10.35
ティータオル 8.45、9.40
チョコ 4.5x2
紅茶 5.98x2
クッキー 4.99
チーズ 39.50
ソルト&ペッパー 11.80
メリノオイルクリーム 22.90
マナティーストレーナー  25.00

マナティーのストレーナーは一目惚れして買ったけど、同じものが日本で1000円くらいで買えるらしい。それも含めて旅の思い出。あげた人にはとても喜ばれたのでそれが何より。
クライストチャーチ発祥のクッキータイムのクッキーはNZエアでも配られるスナック。美味しかったので安心して買えた。ウィッタカーズのチョコレートも機内で味見して美味しかったのでバラマキ土産に購入。NZ限定フレーバーのトワイニング紅茶は…まあ、話題性で買いかな。味は可もなく不可もなくでした。

最後の買い物でやり遂げた感を持って機上の人に。もちろん、脳梗塞防止靴下も装着!
機内でやっと朝食
非日常に飛び込める旅はやはり良いものですね。久しぶりに英語でちょこちょこお話ができたのも楽しかった。
この土地にいざなってくれた全ての巡り合わせに感謝して、長らくのご静聴をありがとうございました。

9:55に離陸して程なく朝食が出て、帰国は日本時間の16:45。多分、日本時間のお昼頃に機内食の昼食が振舞われる。そんな感じ。スターター写真は撮ったのにメイン料理の写真は撮り忘れ。やはり私も歳を取ったのかしらね。旅の最後は気が抜けるようです。

2018年4月2日月曜日

いざさらば 7日目

七日目
モーニングコールは6:30。7:15に朝食をとって8:45ホテルを発ちます。
マヌカハニーやバターは液体物扱いなので預け入れ荷物の方に荷造りを。要注意。
クイーンズタウン空港まではバスで15分ほど。こじんまりとした空港です。フライトまで時間を潰して10:30に離陸。2時間もかからずにアークランドに到着します。
山の神様にありがとう

11:00頃、窓の外を見ると氷河をたたえた山が見えた。「な〜んだ、氷河のある山は存外多いんだな」なんて思って写真に納めた。いや?待てよ。本当に石を投げれば氷河に当たるってくらい山岳氷河ってあるものだろうか?これってマウントクックだったりして…と慌てて首を巡らせて見ると、あった!プカキ湖とテカポ湖。間違いない。何気なく見下ろした山はアオラキマウントクックでした。なんという僥倖(ぎょうこう)。晴天に恵まれたハイキングの思い出も鮮やかによみがえる。それだけでもありがたかったのに、南島最後の日にまたこんな綺麗な姿を見せてくれるなんて。マウントクックのベストシーズンは12月から2月にかけてだそうです。

13:00
空港近くのホテルで昼食。この日はハンバーガー。北島はカンカン照りで暑いのでビールをいただく。この日の服装はサマーセーターにジーンズだったかな?町歩きスタイルで

14:30
食後はバスに乗り込んで橋を渡った先のアークランドのベッドタウン、デボンポートへ。ここからフェリーに乗って景色を楽しみながらアークランドの繁華街へ戻るという企画でした。故大橋巨泉のOKショップを待ち合わせ場所にして2時間ほど自由行動。私は桟橋周辺の観光を推したけど、母がスカイタワーに行きたいというのでだらだら坂を登ってタワーまでそぞろ歩き。しかし思った通り、そこまで行ったにも関わらずタワーには「別に登らないでもいいでしょ」とのこと。母はどうにもこうにも、こういうところがある。逆らわずにタワーの足元から見上げただけですごすごと引き返す。帰り道に少し回り道して教会に立ち寄ってみた。立派な教会で厳かな空気に触れるのも悪くない。自由時間を持て余した方はどうぞお立ち寄りください。さて、それでも集合時間までまだ間がある。
桟橋周辺のカフェでコーヒーでも飲んで時間を潰すことにしよう、となって店まで行くとまたしても「中の音楽がうるさいからやめよう」とのこと。なんだかんだ言っても、やっぱり旅の最後は疲れが出ているのかな?植え込みのそばに座れるスペースを見つけたのでそこに腰掛けてもらって私は一人で桟橋を歩き回ることにした。こんな時に寄り添ってあげられない性格の自分に多少の自己嫌悪を感じながらアイスクリームスタンドで買い食いをして少し息をふきかえす。無理に付き合ってパンクするよりは「自分は自由なんだ」と認識して自由意志でもって付き合う方が互いにとって良いに違いない。

18:00ホテル
ラストディナーは落ち着いた雰囲気
17時にバスに乗り込んで最終宿泊地に到着。添乗員さんが約束どおりホテル近くのスーパーマーケットに案内してくれたのでそこでお土産を買う。バラマキお菓子なんかは土産物屋で買うよりスーパーで買うのが絶対に安いしバラエティに富んでいる。ニュージーランド限定フレーバーのトワイニング紅茶とクッキー、チョコレートを購入。全部で20NZドルだった。

19:30夕食
ホテルレストランで着席式の最後の晩餐会。ツアーの仲間とおしゃべりしながら旅の終わりを感じるひととき。団体行動が苦手な私ですが、今回のメンバーは落ち着いた雰囲気の人達だったので気持ちよく過ごせた。年かさのご夫婦が多かったのですが、仕事で海外を出歩いていたような男性陣が多く、堂々とした振る舞いで奥様をエスコートしていたのが印象的でした。私の父も海外を渡り歩く仕事をしていたけど、果たして夫婦で旅行している時にこんなにきちんと母をエスコートできているだろうか?う〜む、それができていたのなら母は父と旅行に来ていたはずだわね…(^^;)

次回は帰国とお土産編です。