いらっしゃいませ

にほんご べんきょう してきて ください
いらっしゃいませ。ずっと試運転中です。予告なく変更しまくるつもりが仕様変更については手付かずです。

2018年4月7日土曜日

ディーのこと

愛猫の「ディラックの海」が儚(はかな)くなりました。
過去に2度も死にかけて、その都度覚悟を決めていたから想像してたほどには取り乱さずに済んだ。それでも失った悲しみは大きい。猫飼いがいつか通る道だから、真摯に受け止めよう。今回は猫へ捧げる追悼文です。
カメラのレンズを肉球攻撃
先住猫である「シュレーディンガーの猫」の次にやってきた猫だから「ディラックの海」。シャルトリューという猫は協会が決めた謎ルールによって、生まれた年ごとに命名の際の頭文字が決まっている。それに則れば2008年生まれのうちの子は「頭文字D」ということでかなり安易に物理学者ポール-ディラックの名を頂戴した。
ちなみに先住猫の方は元迷い猫で「半分他所の子で半分うちの子」という曖昧な立ち位置から命名された。
仲良しと言うほどではなかったけど
仲間だった二人
ディーの性格はいたって外道。なのに極度のビビリで飼い主の私たちにもなかなか心を許してくれないところがあった。そんな彼の気持ちに変化が生じたのは皮肉にも死にかけて入院生活を経験してからだと思う。
入院はひどい尿路結石を患った時のこと。石を取り除いても何故か排尿ができず、最終的には膀胱を開いて中を洗浄することになった。この時は膀胱内壁が泥の壁で覆われたような状態になっていた。尿道を短くする手術とどちらを採るか迷った末に獣医さんと相談の上行った手術でしたがこの獣医さんの的確な判断と処置のおかげでディーは命拾いした。
この入院生活で彼は相当骨身に応えて我が家のありがたみを痛感してくれたらしく、その後は全身全霊を傾けて私たち家族に甘えてくるようになった。
入院中は毎日面会に行ったけど、初日はこちらに尻を向けたまま唸り声をあげるだけで顔も見せてくれなかった。二日目にはご飯を一切食べてくれないと看護師さんから聞かされたので口元に餌を運んで語りかけてみた。やはり唸り声を出してお怒りのご様子。「ご飯食べて元気にならないと」と声がけをして彼が喜ぶポイントの顎下を指でスリスリと優しく撫でてみた。その時、今でも忘れない驚きの光景が展開された。
唸り声を止めた彼はいつもそうするように首をぐ〜と前に伸ばして、そしてみるみるうちに目にいっぱい涙を溜めて私を見つめた。反射や基礎分泌としての涙はあっても、動物は感情から涙を流すことはないと言うけれど、あの日、確かにディーは病院のケージでお家とその付属物の家族を認識して帰りたいと切に恋い焦がれたのだと思う。
退院後の彼との生活は一変した。彼は甘えることで精一杯の愛情を表現をするようになったし、またヒトの愛情を受け止めることに満足するようになった。あの涙の瞬間、彼は愛を知り、愛することを知ったことで愛される喜びをもまた知ったのだと思う。
腕立て伏せしてるといつも乗っかってきた
病気そのものはツラいことだったけど、最終的にディーが愛し愛される喜びを知ってから逝くことができて本当に良かったと思う。生き延びた後のディーとは蜜月のような時間を過ごすことができて私も本当に幸せだった。ありがとう。
2度目に死にかけたのは慢性腎不全。このあたりのことは 以前にもちょろりと書いた 。朦朧とする意識の中、私の腕の中で弱々しく体を預けるディーを見つめながら、 こうして衰弱して最後の日を迎えるのかと覚悟した日々 。あの時、いみじくも生き物は命ある限り、生きることだけ考えると悟った私だったけれど、ディーは命の限り生きることを謳歌して逝った。腎不全自体は毎日輸液を入れることで死地を脱することができた。餌も腎臓サポート食に変えて彼はみるみる元気になって通常の生活に戻ることができた。
そうして一年近く私たちと幸せに暮らした。そして最後の日はまったくいつもの通りの日常を過ごし、いつもの場所で寝転ぼうとする手前でふいに一声鳴いてそのまま絶命したと言う。

伝聞なのはその日、私は検査入院で不在だったため。いつも通りの日常を過ごす中で逝けたらそれが理想なのに…と病院で話していた私に「それって、こんな感じだよ」とまるで道筋を示すようにディーは駆け上っていった。検査結果はそれなりに衝撃的なものだったのに、ディーのおかげで何でもないことだと思えた。生きていれば死ぬ。死ぬまで生きよう。ただそれだけのことなんだ。←別にヤケクソになってる訳ではない

病気タグを作ったので今後は脳梗塞やウィリス動脈輪閉塞症について備忘録を残していく予定。誰かのお役にたてば幸い。お楽しみ?!に〜

0 件のコメント:

コメントを投稿