いらっしゃいませ

にほんご べんきょう してきて ください
いらっしゃいませ。ずっと試運転中です。予告なく変更しまくるつもりが仕様変更については手付かずです。

2015年5月14日木曜日

デス、ですね

タロットカードの1枚を掘り下げる企画。シリーズ化するつもりはなかったけれど、今回は13番目のカード「Death=死」でござんす。

転職を決めた時、やたらタロットが背中を押してくれやがったのにフタをあけたら医に交わったばかりに朱くなったりアカンくなったり、散々な目にあう日が続いておりました。「これってば、どーゆーことなのよ!」とタロットをめくったところ、出て来たカードが「デス」でした。

ライダー的には新しい可能性に導く意味を持ち、あるいは恐れず何かを手放すことを示すカード。古来「死はすべてを奪い去る」という絵柄が用いられてきたこのカードはライダー版に於いては少し違うニュアンスが込められている。即ち、ある種の死(終焉)を前にして4人の人物がそれぞれ違う対応をしているところが描かれている、というのだ。

権力に固執し変化を受け入れなかった王はすでに倒れ白馬の下に横たわる。
恐れから目をそらしている乙女の瞳はこれからも何も見ようとはしない。
法衣を纏った司教は知恵と伝統の象徴であり、新たな局面に対峙しそれを乗り越える。
そして無垢な子供は曇りなきまなこで起きていることを見つめる。

カード左に描かれた舟は死が古きから新しきへ移ることを表し、またカード右に書かれた太陽を挟んで並び立つ門柱は「月」のカードそのものである。ちなみに「18月」は「17星」と「19太陽」のカードの間に挟まれたいわば産道のようなもの。安寧を象徴する星(母体)から光あふれる太陽(生誕)の間には、ミステリアスで時に狂気を孕む月(産道)が横たわりこれは避けては通れぬ場所なのである。しかしそこを抜けたものには新たな生が約束されている。

私に課された命題は「今まで培ってきた経験や業績に固執することなく、しかしながら積み重ねてきたものを己の力として現状に向き合い乗り越えてゆけ!目をそらすでなく、偏見を持つこともなく」とまあ、そんな事でしょうか。それが新しい自分をもたらす、と。
へー、へー、そんじゃまあ一つ、そんな感じで頑張ってみましょうかね。
ちなみに敬愛するクマのカードの格言は
「損失には精神的に得るものがある」「新しい経験に心開けよ」
あらま、クマとしては随分と月並みじゃな〜い?ぷぅぷぅ
なんて、やさぐれた感じで今月も頑張りまっす。

2015年5月7日木曜日

医に交われば朱くなる

泣き言は言わないとか書いてたら、すっかりブログから遠ざかってしまいましたよ、と。今回は前回に引き続いてしょっぱい話だ、コンニャロメ(^^;)

医者が医者になるために、とてつもない努力や苦労を要してきたことは想像に難くない。そしてまた、真面目に取り組む医師ほど多忙を極め大変な労力を注いで日夜励んでいることも知っている。本当に大変な仕事であることは認める。
しかしあえて言おう「医者だからエライんだ」というのは間違った考えである

突然ですが、私が知っている医者の奥様は大別すると2系列。医者妻になりたくて努力してなった系統と、結婚相手がたまたま医者だった系統の2つ。
前者はある意味、夢を実現させた成功者。自信にあふれ自分の幸せな人生を疑わない。これが悪く作用すると、それ以外の幸せ、即ち医者以外の奥様の幸せをあまり信じてくれない^^。
対する後者は至って自然体。ある意味リーマン妻とメンタルでは一緒。夫に人並みに感謝も不満も持ち合わせ、家庭の愚痴で異業種間でも奥様同士の会話が普通に成立する。

女目線で「妻」に着目したけれど、実はこれお医者そのものにも通じるところがある話。即ち、なりたくて努力して医者になり自分を人生の成功者と思い込んだ医者は他の立場の者を勝手に敗者と見なした振る舞いを天然でやらかす
実際には看護師、事務、出入り業者、時には患者(?!)など、周囲の人達からありとあらゆるお膳立てを揃えてもらわないと、実は何一つ出来ないという医者も居るのが現状(大病院にはその傾向あり)。にもかかわらず医者というだけで「僕は君達より上」というポジションを疑いもせず他者に対して振る舞えてしまうメンタルは到底凡人は持ち合わせない感覚だ。これは頑張りすぎて「頭いいけど頭おかしくなった人」と言わざるを得ない。
医師という仕事にきちんと向き合っている人なら、チームが一丸となって病いと向き合っていることを理解しているのでどんな立場の人とでも円滑に仕事を回していくことができる。医者だからエライのではない、どんな仕事だってその仕事に真摯に向き合う人が尊いのだ

さて凡人ならざるメンタルを、至近にして働くことと相成った私の今後の運命にご期待ください。しょっぺーな〜、もう

2015年4月12日日曜日

ワンド10よ、何処へゆく

またしてもタロットですよ、おかみさん。今回はワンド(杖)10に注目してみました。
転職してからこっち、忙しく&気ぜわしく毎日を過ごしていたので投稿ペースも半減。新しい生活に緊張はつきものですが慣れるまでの辛抱と思い「三ヶ月は泣き言を言うまいぞ」と奮闘の日々。いやしかしすでにその台詞からして、しょっぱい匂いが漂ってるぞというツッコミはナシの方向でひとつお願いしまする。

ワンド10
手に余る重責
さて、そんな時こそタロットカード。必要な情報をくれない上司とどうやって仕事して行こうとか、確認に行くと噛み合わない答えを返してくる上司にどんな誘導尋問が有効かとか、瑣末な悩みは尽きないけれどとりあえず「この場所における自分の役割」についてリーディング開始。そこで間髪入れずに出たのがこちらの杖10でござんす。

すんごい重荷を背負い込んでます。ワンド(杖)には火のようにたぎる情熱とか行動力の性質があるのですがそれが10本も集まるのは過剰。ライダー的には「責任過多で多くのことを引き受け過ぎ」とある。また「自分1人でなんとかしようと踏ん張り過ぎ」とも。
嗚呼、見るからに憂鬱になるこのカード。これが出ると我が腕にかかる重荷を予感して「うひっ」となるのが常でした。どちらかといえば避けて通りたいカード。しかし出ちまったもんはしょーがない。一つ、じっくりと向き合ってみようじゃないですか。
レイチェル-ポラックの本によれば、この人物はあえて難しい方法を選んで10本の杖を運んでいるという。長い杖を扇状に広げて運ぶこの持ち方、どう考えたって不自然でしょ。じゃあなんでこの人、こんな持ち方をするかといえば杖の先をよく見てください。どの杖も芽吹いているんです。つまりこの人はどの芽も潰さぬよう気遣っているという言うのです。なんという人知れぬ努力!ちょっと感動しました。
ややもすると細かすぎて伝わらない努力。そこを指して「自分1人でなんとかしようと躍起な人」とも取れるのですが、私こういう人のこと嫌いじゃないです。徒労かもしれないけど頑張る、そういう人のことを滑稽だなんて嗤う気にはなれない。

ひるがえって、新しく始める仕事は誰だって重要度の高低がすぐには分かりません。つまり初めての経験はどれもが潰してはならぬ大切な芽。どれが重要でどれがそうでもないかを認識するまでは全てのことに注意を払い丁寧に扱わねばならぬ。そのために苦労が多くなっても、最初のうちは仕方のないこと。今はそういう時期なのだ、と捉えて頑張って行きまっしょい。上司がサクッと重要度を伝えてくれれば済む話も中にはたくさんあるんですけどね。んがごご。

ちなみにお気に入りのクマさんタロットの付属冊子に言わせるとワンド10は「失敗のリスクを経験することで、成功の秘訣を知る事ができる」だそうです。どんな経験も成長の糧になるということ。また、そうあらねばならぬと言うことでありましょうな。どっとはらい

2015年3月26日木曜日

動物園へ憩うよ

久方ぶりの動物園はいいですね。去る3月20日は上野動物公園の開園記念日だったそうで、なんと入場無料でした。新しい職場が上野公園を突っ切った先にあるもんで、この日は動物園を通りぬけて出勤しようと企んだ次第。開園は9時半。私の仕事は10時半始まりなので30〜40分は見物できるだろうと計算。
動物園の園内図
 開園直後の人の波は熊猫まっしぐらにパンダ方面へ。「パンダはムリね」と早々に諦めて一人だけ人ごみから離脱しサル山をめざす。小猿が駆け回る様子を楽しんでからシロクマとしろふくろうにご挨拶。西園に抜ける坂道ではまるまるとしたレッサーパンダを見下ろしてから一路、レムールの森へ。本日のお目当てはここに住む「クロシロエリマキキツネザル(レムール)」。通勤時にこの子達の檻だけが園の外からちらりと見えていて、ちょっと気になっていたのです。

わくわくしながら檻の前に立つと、あら居ない。まだ小屋から出てないんだ、と思って標識を読んでいると何か視線を感じる。むむ、レムールが私を見ているではないか!目が合うとやおらこちらに向けて前進してきた。なんて感動的。今朝は君に会いに来たんだよ〜、とか思ってたら彼は私の至近にある餌台に乗って低く唸り声。え、怒ってる?声をかけてみると「あーー、あーーーーぅ」と園内に響き渡る威嚇?の声。嗚呼、動物とわかりあうなんてそんなナウシカな世界を夢見た私がバカだった。彼らは大きな鳴き声とお尻の匂いでコミュニケーションを取るそうです。彼なりのご挨拶だったのか、不快の表明だったのか、私に知る術はない。


動物園の入園料は大人600円。年間パスなら2,400円。4回入ればペイできちゃう。む〜ん、買っちゃおうかな年間パス。出勤途中に動物園って素敵じゃない?と、試用期間中でいつまで勤めるかも分からない私が皮算用。

2015年3月14日土曜日

あたらしいあさ

新しい朝はいつも希望の朝であって欲しいものでござんすね。さてお仕事が変わって久方ぶりに緊張と不安と興奮と希望の入り交じった日々を送っていました。思えば学校なるものに通っていた時分には春になると進級進学があったり、なんだりかんだりでこんな風な新しい朝を定期的に迎えていたわけですよ。齢を重ねるとそうした新鮮な風をこじらす(?)ことも少なくなり、今回改めてこの強制的な空気の入れ替わりについて思いを巡らしたところ。
新しい通勤路は動物の宝庫だった
一寸法師は打ち出の小槌で小さ男から立派な成人に生まれ変わりますが、昔これについて風変わりな一説を聞いたことがある即ち、一寸法師の策略で家を放逐された美しき姫(御伽草子参照)。そのウラミツラミをこめた小槌の一撃で姫が法師を叩き潰したのが物語の真相ではないか、というもの。生まれ変わりの前段階として死は必要不可欠。「死と再生の物語」というのがその主張だったのですが、試しに御伽草子を紐解いても宰相の姫による殺人事件の記述は見当たらない。
むしろ打ち出の小槌という魔法ステッキの存在はかなりの昔から流布していたようで、何の違和感なく物語の中に溶け込んでいる。魔法のハンマーで変身をとげた物語を人々はごく自然に受け入れてきたようだ。
そもそも大黒様からして愛用している打ち出の小槌。地域によっては小槌で頭を軽く叩いて開眼させるなんて行事もチラホラ散見。無病息災や招福を願って云々とは言うけれど、招福なんてものは突き詰めればイマドキの言葉でいう「気付き」と変わらない。小槌で頭を叩くも然り、獅子舞の獅子が頭を噛むのも然り、一つの死を通して生まれ変わり即ち「開眼」をすることが本来の意味ではないかと思わされる。
そういえば大黒様はヒンドゥーにおいて破壊神シヴァの夜の姿(摩訶迦羅=大いなる暗黒)といわれている。迦羅には時間の意味もあり、意訳するなら大いなる暗黒の刻。
破壊の後にすべてが消滅する永遠の時間を越えた先にある再生。漆黒の夜の後に訪れる新しい朝。何かを打ち破って再構築をする物語には大黒様の小槌はうってつけの小道具だったのかもしれない。

さて何が言いたいかと申しますと…
今まで積み上げたものを手放して新しく作り上げるのは多少の苦しみを伴うものだけど、自分を再構築して開眼する気概を常に持ち続けたいものであります。新しい生活に飛び込んでゆく人々に幸あれかし。希望は誰かに用意されているものではなく、みずから見いだして追いかけるものだから。
目下、私の見出した希望は新しい職場に点在する沢山のランチ候補地を試しまくることだったりする。楽しいことは自分で見つけださなくちゃね。