いらっしゃいませ

にほんご べんきょう してきて ください
いらっしゃいませ。ずっと試運転中です。予告なく変更しまくるつもりが仕様変更については手付かずです。

2011年12月19日月曜日

ゆく車の流れのように

私の通勤ルートは大きくわけて三つに区切ることができる。
幼年期 自宅から国道をまたいだ向こうの農道へ至る道、および農道その1
青年期 橋を渡り隣県の街を突っ切り農道その2へ至る道、および農道その2
壮年期 学園都市へと続く広くて長い道

毎日の同じルートを走っていて私はある事に気がついた。街中を走る車は目的地がそれぞれ違う。しかし農道を目指す車は農道の一本気?な性質上ほぼ同じ所へ向かう事になる。
地元の仲間と農道目指して粛々と進む幼年期は順当に学年を進んでいた学校生活を彷彿とさせる。農道1を分岐して隣県に入るとそこは幹線道路が複雑に入り組む街。ここでは目的地がそれぞれ違う車との出会いと別れを繰り返す青年期に似ている。やがて農道2を過ぎて最終目的地へと最後の仕上げをひた進む壮年期。

これ通勤ルートじゃないです
The far roads
車線変更や信号での足止め、抜け道使いと回り道、せめぎ合いや譲り合いを繰り返しながら同じ時と場所を共有するこのキャラバンの中にあって、結局人生もこの流れと同じだと思うようになった。結婚とか出世とか、チェックポイントの通過が早かろうが遅かろうがそんな事は長い視点でみたら全く平均、平衡化されてしまうものなんだ、と。
追い抜いた車はたいてい信号待ちの間に追いついてくるし、抜け道に出てった車が気がつきゃ自分の後ろについてるなんてことはザラに起きる。赤信号に捕まらずに走れる時もあれば、信号毎に停止を余儀なくされる時だってある。こうして確率的には順調期と停滞期は同じ頻度で顔を出す。つまり、走行距離が長くなるほどに顕著な違いは出なくなる。サイコロを多く振るほどに出る目が平均化するように。

逆に短い視点しか持っていないと、ちょっとの事で損得を強く感じてしまうのかもしれない。毎朝遭遇する T○Y○TA のおじさん、貴方の事ですよ。他の車を煽りまくって前に前にとすっ飛ばして行くけど、結局いつも同じ信号で私と並んでる事にいい加減気づきなされ。ムダな努力、つーよりむしろ危険な努力だ。それって人生と一緒なのかもよ。化比

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