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2018年6月5日火曜日

猫のいる部屋 8


会いたいと強く願った者の所へ引き寄せられる。それが本当なら強く願って待つしかない。ただし夫はまだ存命だ。ほどほどの匙加減で願わなければ。
でもちょっと待って。確かにここは私の楽しい思い出の地だが、本当に私はここに来たいと願ったろうか?思い入れのある土地はここ以外にもある。何と言っても私はここには2年しかいなかったのだ。その後の人生と照らし合わせて、ここが絶対とは考えにくい。
さりとて強い願いで私を引き寄せるような人物がこの街にいるとは思えない。夫は…未だ存命のはず。うん、そうだ。悲しいけれど彼に看取られた記憶が確かにある。この世界にはまだ私の知らない謎が隠れていそうだ。

物思いに耽る私をオトヒメがじっと見あげている。「引き寄せたのはお前だったりしてね。」おどけてオトヒメの猫の額を優しく撫でてみる。オトヒメは「そうだとも!」と満足そうに額をすり寄せてきた。

オトヒメ
どうしてオトヒメはここにいるのだろう?
どうして私と一緒にいるのだろう?

オトヒメはいわばこのアパートの猫だ。誰のものでもなかったのだ。学生街のこの街ではアパートの住人はほぼ一年毎に入れ替わる。オトヒメを置き去りにして転居した学生は実はオトヒメを置き去りにしたわけではなかった。それを知ったのはオトヒメと暮らし始めてから四ヶ月ほど経った頃だった。
オトヒメは私たちと暮らすようになった初期の頃、夜になると外へ出せと言いだし、しばらくすると帰って来るということを二日ばかり繰り返した。どこへ行くのかと二日目の晩にあとをつけると以前の飼い主と暮らしていた部屋の前でドアを開けよと鳴いていた。新しい住人が暮らす閉ざされた部屋の明かりを悲しげに見つめていたのだ。そばまで来た私に気がつくとオトヒメは「もういいんだよ」というように私の足にすり寄って、それ以来もう以前の部屋の前に座り込むことはなくなった。
そのオトヒメが帰ってこなくなったことがある。どこか狭いところから出られなくなってはいないだろうか、事故にあったろうかと心配して1週間ほどが経過した。もしオトヒメと再会できてもきっとボロボロの痩せこけた姿で発見されるだろうと思っていたのに夜半にドアの外で私たちを大声で呼ばわってから帰宅したオトヒメは毛並みもツヤツヤでシャンプーの匂いまでさせていた。むしろ失踪前よりうんと綺麗になって帰って来た。
オトヒメを気に入った誰かが自分の部屋に閉じ込めて帰れなくしていただけだったのだ。いずれ帰国する運命の私たちとしてはこれだけ丁寧にお世話してくれる人がオトヒメを大切にしてくれるならそれに越したことはない、と思った。
とりあえず首輪をなくしているので念のために新しいものを買い与えて、再びオトヒメが帰らなくなった時には「また別宅へ行ったな」と今度は安心していた。三日後、帰宅したオトヒメは首輪にメッセージをつけていた。
To the person who has been taking care of me」(僕の世話をしてくれていた人へ)で始まるその手紙はユーモアと愛に溢れ、私は今でもそれを手にすると涙が溢れる。
「僕の名前はボブです。僕は新しい部屋では幸せではありませんでした。僕は四六時中閉じ込められてしまうのです。もし、あなたが僕をとどめておきたいならどうか以下のナンバーに電話をして古い飼い主に知らせてください。そうすれば彼はもう僕を心配しないで済みますから。Thank you
私はこんなに愛情深い手紙を読んだことがありません。こんなに前の飼い主はこの猫を愛していたのに、そしてこの猫もご主人をあんなに愛していたはずなのに。猫は家に付くという。その猫の業の深さに思わず泣いた。
夫が早速電話をするとその学生は「ボブが幸せならそれが一番なのさ」と言ってくれた。
ああ、それなのに!私はオトヒメとあんな別れ方をしてしまうなんて。

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