いらっしゃいませ

にほんご べんきょう してきて ください
いらっしゃいませ。ずっと試運転中です。予告なく変更しまくるつもりが仕様変更については手付かずです。

2014年8月10日日曜日

夏の高上がり

展望デッキの真下覗き窓
高い所が好きっ。山頂然り、展望台然り。高所からの眺望はそれだけで気分爽快。というわけで夏休みお出かけ企画、スカイツリーに登ったよの巻。登ったのは夏休み前のことですが、細かい事はまあいいか。

入場料は当日券で展望デッキ2,060円(日時指定券はこれに510円増し。夏休み前の平日なら指定ナシでもエレベーターにすいすい乗れましたよ)。さらに上の展望回廊を目指す人は展望デッキの売り場で1,030円のチケットを買ってね。なんで2段構えにするかな?と思うけど、実際問題「最上階は別にいいや」という人も居るからなんでしょうね。でも私に言わせればここまで来て一番上に登らないなんて、何のためのタワーかっ!てなもんでござんす。何とかの高上がりと思われましょうが、高所恐怖症でない限り、とにかく最上階に行ってみよう。全然視界が違いますから
建設中のスカイツリー
右手にうんこアサヒビール社屋

思えば子供の頃、親に連れられて東京タワーに登った時には足下を覗き込み「高いと言ってもこんなものか」と思ったおっぺけぺーな記憶を持つ私。その記憶を引きずったままで東京タワー未体験の旦那に付き従い、東京タワー詣でをしたのが2年前のこと。この時の衝撃の大きさは今も忘れない。子供の時の私は一体、ナニを見ていたのかと。
自分の足元だけを見るのと周囲全体を俯瞰(ふかん)するのは全く違う。おそらく幼少のみぎりの私は足下しか見ていなかったのでしょう。周囲を見回したとしても、当時の私は東京という街そのものとまだ縁(えにし)を結ぶ間もなくて、そこは「自分とは無関係な大人達の街」でしかなかった。それが無感動の一因だったと思う。
まづ高館にのぼれば、北上川、南部より流る大河也。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。 奥の細道
数年前、名古屋城の天守に登った時に頭に浮かんだのは上記の松尾芭蕉の平泉のくだり。天守閣からの眺望は清(すが)しくてそれだけで楽しかったのは事実だが、惜しむらくは私には中部地域の地理的な素養がまるでなく、ただ遠く見晴らして「ほぅ」と感嘆するしかなかった。芭蕉や曽良のようにその土地の歴史や記憶、あるいは現在の生活感覚を辿ることに不備であった自分をその時少し呪わしく思った。
2年前の東京タワーはそういう意味では初めて土地勘をもって高所から街に臨んだ体験。慣れ親しんだ街の平面地図を眺めるように楽しんだ後で、展望台からさらに上層の特別展望台に登った時に街の印象は驚くほど一変した。「こんな街だったろうか?!」視点の角度が変わった事で、そこには平面地図とは違う位置感覚が出現していたのだ。例えるなら動物の一定の角度から撮った写真ばかり見て育った人が初めて実物を間近に見たような衝撃?「こうだったんだ…」という感動。これを体感するためには絶対に一番上まで登るべき!

というわけで夢が枯野を駆け巡るタイムリープはここまで。肝心のスカイツリー現場に戻りますよ。展望回廊と名付けられた最上階の様子とは!?
展望回廊からの眺め
一言で述べるなら圧倒的な圧縮感。下の展望デッキからでは臨めない遥か遠くまで見晴らし、相関的に至近の景観はギュッと押し縮めて見える。一つ一つのランドマークはまるで小さな細胞組織。組織の集合体が器官になって連携し命の躍動をするように…そう、展望回廊から見る景観はこの街が活(い)きていることを感じさせる。(当社比)
スカイツリーと上野の五重塔がきれいに重なっている
足下には発掘調査中の水戸藩邸跡という珍しい写真
今はもう失われた風景
足下の景色だけを比べると、これは私に言わせればある一定の高度(レベル)を越えるとみんな同列に「ひょ〜、たっかーい」というものでしかない。レベルの違いとは俯瞰をした時に初めて表出するものなのだな。おそらくそれは世の中のいろんな物事に共通することなのかもしれないな、とそんな事を考えたひととき。皆様、よい夏休みを。

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