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2014年8月15日金曜日

かえりみる八月

今日は終戦記念日。こんな日くらいは少し過去を振り返ってみよう。
もちろん、私は戦争を知らない中年達さ〜♪。と、書いてて思ったけどもはや『戦争を知らない子供たち』という歌そのものを知らない子供たちが多い昨今、こういう無駄口はヤメヤメ。

自分の親世代ですら戦争は遠いガキんちょ時代の話。その体験談には祖父母世代からの伝聞も多く含まれる。曾祖父母からの伝承となるとほとんど耳に入れた記憶がない。ウラをかえせば自分が伝え聞く祖父母世代の体験は子世代に伝えないと、ほぼ完全に忘却の彼方に押し流されてしまうのだな〜…と感慨ひとしお。
8月は戦争を憶(おも)う月。子供の頃は繰り返される戦争回顧番組にうんざりしたり、悪夢のように現れる金曜ロードショーの『蛍の墓』に七転八倒したり、正直「しつこいな〜」と食傷気味に感じる時もありました。けれど終戦後69年目の今夏、原爆の日にあまりに報道各社の姿勢がさらりとしているように感じて我にかえった。こんなに原爆の日って静かでしたっけ?なんだか沈黙の夏。こうなると、それはそれで落ち着かない。

母は幼い頃に広島で被爆している。小さいながらその日の記憶はある程度鮮明だ。外で遊んでいた時に街の方角を指さして動揺しはじめた大人達の姿。遠く立ち上るキノコ雲と落下傘。ただならぬ気配に泣き出した妹と二人で家路につく途中、出迎えた祖母(私の曾祖母)から「あんたら泣くけぇ(泣くから)雲がついてきよるよ」と言われて振り返るとキノコ雲が街から広がりやがて頭上から黒い雨を降らせたこと。それからケガ人が市街地から続々と学校に搬送されてきて祖母がシーツやカーテンを引き裂き包帯を作る手伝いに駆り出されたこと。
母の体験はそれくらいのものであったが、ケガ人の救護に当たった人達は二次被爆の認定を受けたこと、被爆者手帳の交付を巡っては差別を恐れて認定拒否をする人も少なからずいたこと、そんな細々とした話は祖母から母、母から私に繋がれた。
母は今、減少の一途をたどる原爆語り部の引き継ぎ事業に駆り出されている。人々の体験話を引き継いで次の世代に繋ぐための活動で「正直、おかーさんは暗い話は苦手で辛くてシンドイ」そうだが、これも課された使命と思って参加をしている。
あまりに辛い体験のため、誰にも何も語らなかった人でも「引き継ぎであるならば」と初めて口を開くケースもあるようで、そうした使命感のようなものが伝播してシンドイ母を何とか引き止めたようだ。

どうして引き継がねばならないのか?それを考えることが大事。これはただの昔話じゃない。誰の身にも起こりうる他人事ではない話。半死半生の家族を置いて逃げなければならなかった人の一生の慟哭。通常では考えられないような大怪我をしながらも命ある限り逃げ惑った人々の群れ。一度戦争という非常事態が起きたなら、いつでも我が身にふりかかる地獄の話。どれだけ我が身に置き換えて考えられるか、どれだけ真剣になれるか。それが未来に繋げるということ。
なんとなく、なんとなく、で戦争に舵をきった歴史を忘れない。その気持ちが8月の雰囲気を持続させてきたと思いたい。来年は70年目。節目が控えてるから今年はちょっと静かにしてみました、ということだよね?報道陣営さん?!

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