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2012年3月24日土曜日

はたちの頃を過ぎても

共感覚のお話をもう少し。科学番組なんかで「ムシとヒトの視覚はこんなに違う」みたいな映像を見たことがありますか?ヒトには感知できない光をムシたちはとらえるため、同じ花を見てもこんなに違う、みたいな。 参考資料 
見え方、捉え方が違っても対象物である花を「花」としてとらえるのは同じ。つまり真理が一緒ならそこに至るプロセスなんてどうでもええじゃないか。共感覚ってそんな感じ(ちょっと乱暴な説明ね ^^;)。例えば数学の命題においてもプロセスが違ってもちゃんと真理に至るならそれでええじゃないかと思うのだが、それはあくまでも数学のお話。これが小学校の算数においては指導要綱が立ちはだかり、どうにも問屋が下ろさない。今回はそんなお話。

小学生時代の息子の奇癖は、とにかく暗算大好き男。じーーーーっとプリントを眺めてエイヤッと答えの数値だけ書いてしまう。暗算して一気に書き上げることがマイブームだったらしいんだけど、コレ先生からめちゃくちゃ怒られるんだ。「途中式を書くよう言い聞かせて」と先生に泣きつかれ私も説得するのだが聞きゃーしない。途中式がないことで減点されたって本人まったくどこふく風。
でもね、ある時気がついた。息子は単に暗算処理してるだけでなく、どうやら教えられた以外の方法で問題に対峙している。先生の指導は理解し修得もして、その上で「そのやり方はキライ」といって独自の方法で答えを導き出す。その方法が他の人にない感覚(まさに共感覚的な?!)で処理しているらしい事を私はある経験を通じて知った。(その話は書いてみたらすんごく長くなったから割愛^^)

お酒は二十歳になってから
段階的に教育を施す側としては、こと数学に関しては、土台部分で間違った認識を持たれては困るから一律で共通認識を叩きこみたいんだろう点はよっくわかる。そこを曲げても思うのは、もし解答に至るプロセスが間違ってないのなら必ずしも解答方法が一律である必要はないのでは?ということ。自力で解決方法を見つけた人にも「このやり方でやりやがれ」と押しつけなければならない世界。それが学校教育。(社会ってそういうこと、多いけどね)。岡田さん(なぞ)も言っていた。「教育とは自分の知ってることを教えることじゃなくて、共に発見をすること
親の私ですら良かれと思って「こうした方がいい、ああした方がいい」なんて自分の知ってることのみを子供に押し付けてしまう。「あなたのやり方はこうなんだね」なんて一緒になって見つける教育は存外、時間も根気も半端なく必要で難しい。
てなわけで、許せ息子よ。なんか他の人が持ってない才能っぽいもの持ってるのかも〜、と思いつつ母はそれをどーしたらいいか全然わかんなかったのよ。多分、はたち過ぎたらただの人程度だと思うんだ、と自分に言い聞かせて痛恨の放置プレイ。まあね、本当の天才なら人の手をかりずに自分でなんとかしなさい!以上

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