見え方、捉え方が違っても対象物である花を「花」としてとらえるのは同じ。つまり真理が一緒ならそこに至るプロセスなんてどうでもええじゃないか。共感覚ってそんな感じ(ちょっと乱暴な説明ね ^^;)。例えば数学の命題においてもプロセスが違ってもちゃんと真理に至るならそれでええじゃないかと思うのだが、それはあくまでも数学のお話。これが小学校の算数においては指導要綱が立ちはだかり、どうにも問屋が下ろさない。今回はそんなお話。
小学生時代の息子の奇癖は、とにかく暗算大好き男。じーーーーっとプリントを眺めてエイヤッと答えの数値だけ書いてしまう。暗算して一気に書き上げることがマイブームだったらしいんだけど、コレ先生からめちゃくちゃ怒られるんだ。「途中式を書くよう言い聞かせて」と先生に泣きつかれ私も説得するのだが聞きゃーしない。途中式がないことで減点されたって本人まったくどこふく風。
でもね、ある時気がついた。息子は単に暗算処理してるだけでなく、どうやら教えられた以外の方法で問題に対峙している。先生の指導は理解し修得もして、その上で「そのやり方はキライ」といって独自の方法で答えを導き出す。その方法が他の人にない感覚(まさに共感覚的な?!)で処理しているらしい事を私はある経験を通じて知った。(その話は書いてみたらすんごく長くなったから割愛^^)
お酒は二十歳になってから |
親の私ですら良かれと思って「こうした方がいい、ああした方がいい」なんて自分の知ってることのみを子供に押し付けてしまう。「あなたのやり方はこうなんだね」なんて一緒になって見つける教育は存外、時間も根気も半端なく必要で難しい。
てなわけで、許せ息子よ。なんか他の人が持ってない才能っぽいもの持ってるのかも〜、と思いつつ母はそれをどーしたらいいか全然わかんなかったのよ。多分、はたち過ぎたらただの人程度だと思うんだ、と自分に言い聞かせて痛恨の放置プレイ。まあね、本当の天才なら人の手をかりずに自分でなんとかしなさい!以上
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