いらっしゃいませ

にほんご べんきょう してきて ください
いらっしゃいませ。ずっと試運転中です。予告なく変更しまくるつもりが仕様変更については手付かずです。

2017年3月20日月曜日

美は誰がために

ふと気がつけば私の友人にはカワイコちゃんが多かった。生まれたときから側にいる姉からして近所でも評判のべっぴんさんだったので、常に美人母娘と褒めそやされた後で「妹さんは…お父さん似なのかしらね?」と聞かれる事にも慣れていた ^^
そんな姉から衝撃の発言を聞いたのは学生の頃。その日、私は中高生の頃から撮りためた写真の整理をしていた。横から覗いた姉が「あんたの友達って可愛い子が多いのね」と話しかけてきた。友達を褒められてちょっと嬉しくなった私は高校時代のイチオシの子の写真を得意になって見せていたのだが、そんな私を憐れむように彼女は言った。「その友達はあんたのことを引き立て役だと思ってるよ」
なんてこと言うんでしょうねこの人は!つか考えたこともない発想
いやちょっと待てよ。考えたくない事だが我が美人なる姉は友達に対してそーゆー考えをする人なのか?姉は美人だがどちらかと言えば質実剛健な性格だと思っていたのでその発言には驚かされた。正直「女ってナニ考えてるかワカンネーな」と思った。
ところが似たような経験をその数年後、別の美人さんから受ける事になる。その人は後に芸能界入りを果たすくらい別格の美人さんだったのだが、小さい頃に一部女子からつまはじきにされるイジメを受けていて異常と言えるほど控えめで優しい性格の人だった。ある時、私の姉の写真を見た悪友どもがひとしきり「姉さん美人だ、妹とは血が繋がってない」と盛り上がった事がある。後にその美人さんと二人きりになったとき彼女は「お姉さんが美人でずっと嫌だったでしょう」と切り出してきた。「え、なんで?」「だっていつも比べられちゃうでしょ、嫌だったんじゃないかな
姉をネタにしてからかわれていた私を慰めてくれるつもりだったのか、今となってはわからない。だけど比べられて嫌という発想は自分には皆無だった。むしろ姉が美人と褒められるのは子供の頃から誇らしいことだったのだ。

自分が顔の美醜にこだわらない性格になったのはあまりに比べられすぎてあっしには関わりのねえ事でござんすと早々に戦線離脱したからなのか?そりゃキタナイよりはキレイにこしたことはないけど当社比で恥じるところがなければなんら問題ない。
姉にしろ友人にしろ、私の周辺にいたカワイコちゃん達は過剰に自分を飾り立てるようなことはしない人たちだった。そういう意味では視覚的な美よりも内なる美徳こそが近しい人になれる価値判断の基準だったと思う。
と、そんなことを考えるようになったのは医療関係に近い仕事に就いてから。ここは今まで私の至近にいなかったキレイキレイにしてるお姉さん率がバカに高い。キレイなお姉さんとキレイにしているお姉さんは似ているようでチョット違う。私の考えるキレイにしているお姉さんとは自分を飾り立てる事に熱心な人たちの事。
私の数少ない聞き取り調査によると、彼女達はより良い配偶者を得るために自分の価値を高めるべく美を追求する、という事らしい。(余談だが、美しい私と食事できるんだから男は奢って当然という話も聞けた)なるほど価値観が合わないからこの系統の人と今まで親しくなるチャンスはなかったわけだ。
とはいえ、私はその考えを否定はしない。良い配偶者というのが「諸条件の良い配偶者」の事だったり、「自分はメシを奢られるだけの価値がある」という考えは人間味としていささか疑問の余地は残るが、生物として考えるなら実にメスの本能に従った行動だと納得できるからだ。貢物をさせて値踏みして、安心して子供を産み育てる環境が整えられる好条件のオスを選ぶのは動物としては至極まっとうでヨキカナ善き哉。

と一人合点していた私はまたも衝撃発言を耳にする事になる。「エリートと結婚して生まれた子供がバカだと私のせいにされるから絶対子供は産まないんだ」
え〜!動物的本能じゃなかったのー?!つがいの目的が個体保存のためだけなんて…
やっぱ価値観違うとナニ考えてるか、さっぱりワカンネーな。多分お互いさまだけど ^^;

0 件のコメント:

コメントを投稿