いちめんのなのはな いちめんのなのはな
いちめんのなのはな いちめんのなのはな
いちめんのなのはな いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ いちめんのなのはな
いちめんのなのはな いちめんのなのはな
いちめんのなのはな いちめんのなのはな
いちめんのなのはな いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり いちめんのなのはな
いちめんのなのはな いちめんのなのはな
いちめんのなのはな いちめんのなのはな
いちめんのなのはな いちめんのなのはな
やめるはひるのつき いちめんのなのはな。
山村暮鳥『風景~純銀もざいく~』前回のタイトル『まひるのつきは やんでいるのか』があまりに亜空間ダメ人間なタイトルだったので、捕捉的なお話を。勘の良い人は前回、ツツジ写真のエトキ(いちめんのつつじ)で山村暮鳥の詩を想起されたと思います。さらにニュータイプ的な人なら、その詩からタイトルである「まひるのつき〜」の正体もおぼろにつきとめられたのでは。さらにさらに、美術館を訪れているならば、壁に直接この詩を印字した印象的な通路を思い出した方もいるでしょう。と、かように空想と連想に身をまかせ漂い流れてしまう人間を『亜空間ダメ人間』というそうです。 参照『ダメにんげんだもの』さよう、今回のタイトルも、ひらがなが並んでる所から来た亜空間ジャンプでっす。
それはそれといたしまして。
端的に言って芸術ってムズカシイ。何が難しいって、感じ方なんて人それぞれなわけでして、周波数が合わないものをどれだけ説き伏せたって心の琴線かき鳴らすことなんてできゃしない。国語の教材にも長く使われた上記の詩だって、これを良いと思う人なら理屈抜きで「すてきだ〜」と思うわけだし、一方でゲシュタルト崩壊して叫び出したい衝動にかられる人もいるかもしれない。
「詩の読み方」なんぞを手ほどきする授業としては「ひらがなの連続により視覚的にうったえてくる風景描写と挿入される聴覚的な状況描写。3つめの段で菜の花以外の視覚的要素を初めて取り入れて、その異質さを病める月で表現云々」なんて講釈を垂れるのであろうことよな。教科書の欄外には初めて見る表現として「病める」という注釈をつけたりなんかして。でもちょっと待ってよMr. ポストマン!暮鳥さんはコレ、本当に病める月だって言ったの?
や、本人がそう言ったつーんなら間違いないし、実際私も月が病んでる方が詩的にステキとは思うんだけど、例えば一面の菜の花に圧倒されて頭真っ白(or 真っ黄色)になってそこに立ち尽くしている私がいて、麦笛の音や雲雀の声ですら菜の花の世界から逃れられなかったというのに、その狂気ともいえる威圧感を「止めた」のは中空に浮かぶ昼の月…と読むことはできないだろうか。
というか、そうとらえたって何の問題もないでしょう。作家の発信したものを個々に受信する。それが芸術ってもんじゃないの?むしろ授業で取り入れるなら、それぞれの感じた事を発言しあって「こんな見方もあるんだ〜」と互いに発見したり、ヒトの心を読み解く参考にしたり、そんな風にはできないものなのかな。
「これはこうですよ」なんてキマリゴトを教える授業は、芸術鑑賞ならぬ芸術干渉。
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