新しい朝はいつも希望の朝であって欲しいものでござんすね。さてお仕事が変わって久方ぶりに緊張と不安と興奮と希望の入り交じった日々を送っていました。思えば学校なるものに通っていた時分には春になると進級進学があったり、なんだりかんだりでこんな風な新しい朝を定期的に迎えていたわけですよ。齢を重ねるとそうした新鮮な風をこじらす(?)ことも少なくなり、今回改めてこの強制的な空気の入れ替わりについて思いを巡らしたところ。
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新しい通勤路は動物の宝庫だった |
一寸法師は打ち出の小槌で小さ男から立派な成人に生まれ変わりますが、昔これについて風変わりな一説を聞いたことがある
。即ち、
一寸法師の策略で家を放逐された美しき姫(御伽草子参照)。そのウラミツラミをこめた小槌の一撃で姫が法師を叩き潰したのが物語の真相ではないか、というもの。生まれ変わりの前段階として死は必要不可欠。「死と再生の物語」というのがその主張だったのですが、試しに御伽草子を紐解いても宰相の姫による殺人事件の記述は見当たらない。
むしろ打ち出の小槌という魔法ステッキの存在はかなりの昔から流布していたようで、何の違和感なく物語の中に溶け込んでいる。魔法のハンマーで変身をとげた物語を人々はごく自然に受け入れてきたようだ。
そもそも大黒様からして愛用している打ち出の小槌。地域によっては小槌で頭を軽く叩いて開眼させるなんて行事もチラホラ散見。無病息災や招福を願って云々とは言うけれど、招福なんてものは突き詰めればイマドキの言葉でいう「気付き」と変わらない。小槌で頭を叩くも然り、獅子舞の獅子が頭を噛むのも然り、
一つの死を通して生まれ変わり即ち「開眼」をすることが本来の意味ではないかと思わされる。
そういえば大黒様はヒンドゥーにおいて破壊神シヴァの夜の姿(摩訶迦羅=大いなる暗黒)といわれている。迦羅には時間の意味もあり、意訳するなら大いなる暗黒の刻。
破壊の後にすべてが消滅する永遠の時間を越えた先にある再生。漆黒の夜の後に訪れる新しい朝。何かを打ち破って再構築をする物語には大黒様の小槌はうってつけの小道具だったのかもしれない。
さて何が言いたいかと申しますと…
今まで積み上げたものを手放して新しく作り上げるのは多少の苦しみを伴うものだけど、自分を再構築して開眼する気概を常に持ち続けたいものであります。新しい生活に飛び込んでゆく人々に幸あれかし。希望は誰かに用意されているものではなく、みずから見いだして追いかけるものだから。
目下、私の見出した希望は新しい職場に点在する沢山のランチ候補地を試しまくることだったりする。楽しいことは自分で見つけださなくちゃね。