本気と書いてマジと読む。前回に引き続いて仕事関連のお話です。愚痴と悪口になる予感満載の今回の話題、御用とお急ぎでない方は寄ってラッサイ見てラッサイ。
どんなお仕事でも真面目に努めようとすれば大変なもの。だからこそ大変な仕事であればあるほど、こころざしや覚悟がなければおいそれと続けられるものではない。
さて、日本で働くお医者さんの中で一体どれだけの人が覚悟や志しを持って医者になり得たのでしょうか?
てなことを考え込んでしまうほど、医療関係の職場で仕事をするようになってから出会う医師たちのハズレくじ加減の凄まじきことよ…。
ハズレ組の多くはお勉強ができたがために「じゃあ医学部受けようかな」くらいのスタンスで医学の道に来た人が多い。デキる子だったために周囲の期待も大きく、それに応える形で進路を決めちゃうような良い子たちでもあるのでしょうが、何をするのでも自分の意志というのがまるで見えない。医師だけに?(^^;)
そこを踏まえてヤル気とか本気度、仕事にかける情熱みたいなものが感じられない人が多いので一緒に仕事をしていてうんざりすることも多い。
私は病棟で働いているわけではないので臨床医としての彼らのことは実はあまりよくわからない。研究においてはダメ人間で私がボロクソに思っている医師でも、患者さんにとって良い医師ならそれならそれで本業を全うしているので良い医師だと思う。
しかし良くない評判ほど耳に入りやすいと言う側面はあるものの、誠実ではない仕事ぶりというのは何かの拍子に表出するもの。本当にやりたい仕事として医師を選んだわけじゃないから医師の仕事するの面倒くせ〜…みたいな働き方は見ていて気持ちの良いものではない。
そしてまた不運なことに、研究棟に出入りする医師の多くは臨床から逃げたいから研究へ…という輩が紛れ込むのも事実である。医師にはなったものの医師の仕事には興味がないから逃避の結果で研究へ、という人の本気度なんてたかが知れている。研究のケの字も学ぶ気持ちが、それこそ毛ほどもないのでヤル気のなきこと禿山のごとし。
一番タチが悪いのは「専門医」の肩書き欲しさに学位を取りにくる輩。学生時代は医師になるための勉強しかしてこなかったので他学部であれば学部生のうちに習得するのが当然の実験のイロハが何もないので、おったまげーなことを実験室でしでかす。
研究という仕事はざっくり言えば、とある仮説を立ててそれを実証するための実験を組み立てて「ほ〜ら見てごらん、これは絶対にこうなるでしょ」という筋道で人々を納得させる必要がある。「誰が見てもこれはこうなる」という真実を突き止めるのが研究。
仮説を実証するために都合のいいデータだけを集めるのは真実とは言えない。「これはこうなんだと思います」という推論は論文として成立しない。その常識が何故かセンセ達に伝わらないもどかしさ。「これは癌だと思ったから癌なんだ」なんて診察をしてるんですかね?テクニシャンという仕事は研究のお手伝いが本筋だが、ここでの仕事はセンセ方の暴走を止める役割を担う必要もあって実に骨が折れる。
書いてるうちにシャレにならん話がボロボロ出てきそうなので慌てて削除して今日はここまでにしとうございます。小保方さんは医学部に出向いて学位を取ったということなので、他の業界ではとても通用しない論文を作成してしまったのも宜(むべ)なるかなとしみじみ思う今日この頃。教育って本当に大事。教育がなされてない国家試験予備校みたいな大学をなんとかしないと日本の科学技術は大変なことになる。否、もうなっているのか?
いらっしゃいませ
にほんご べんきょう してきて ください
いらっしゃいませ。ずっと試運転中です。予告なく変更しまくるつもりが仕様変更については手付かずです。
2017年12月18日月曜日
2017年12月5日火曜日
かわいそうの本気度
生き死に備忘録が続いていたからついでに書いちゃえ!本日は動物実験のお話です。
それはまだ私が農学部で学んでいた頃。実習という名の強制労働に駆り出されて牛やら豚やらの世話に明け暮れていたことがありました。動物の世話自体は私にとっては楽しい経験だったのですが、糞尿まみれで文句タラタラな女子の一部が豚の出荷時にこぞって「かわいそ〜」の大合唱を起こすのが苦手だった。かわい〜の延長でかわいそ〜と人前で言わねばならぬ空気は女子の嗜みというものか。その都度、農場の先生が「ぶわっかもん!家畜は食べるために育ててんだ。こいつらにとっては食べてもらえないことが一番の不幸なんだ」と叱責するのがお約束になっていた。
その先生が事故で死んだ仔豚を両腕に抱いてたのを見たのは今も忘れられない思い出だ。先生は「かわいそうにな、お前は食べてもらえなくてかわいそうなことをしたな」と小さな声で仔豚に話しかけていた。先生が畜産を志した経緯は知らない。だけど動物を慈しむ人だったのは間違いないと思う。
私に動物実験の手ほどきしてくれた人は薬学出身の若いテクニシャンだったけれど彼女もまた「実験動物は実験のために生きているのだから正しい実験に使われないのは一番いけないことだ」と教えてくれた。そこには「無駄に生かしておくことも悪である」という厳しい哲学もあった。実際に動物実験の講習では、役目を終えたor役目を持っていない動物は実験室から速やかに退出させることが推奨されている。それはすなわち命を終えさせることに他ならない。ある意味、この開き直りのような「役目を終えさせる」という思考ができない人は動物実験そのものを受け付けないし、無理にやらせれば心を病むことにもなる。
動物実験の是非を語るのは実に難しい。私が講習会を通して得た結論は、避けられる方策があるなら極力動物を使わない実験を検証すること。そして決して無駄になるようなへっぽこ実験に動物を使わないこと。そのために動物実験をする者には入念な実験計画を立て、厳密な内容の書類提出が義務付けられている。(計画と書類提出は研究者の仕事で私は言われたことをやるだけですけどね)
動物実験経験者が経験した実験内容を紹介しあうと、必ず「うへぁ〜」という微妙な空気が蔓延する。実験中は平常心を保っていられても、改めて口にして説明すると言う方も言われた方も色々想像して「うへぁ〜」となってしまう不思議。経験者同士でもそうなのだから未経験の人に実験の内容を言うのは得策ではない。
でも言っちゃう。私の初めての動物実験は虫でした。低線量の放射線を当てて変異率を調べるというもの。染色体を取り出してジロジロ見る実験に従事していました。虫なんて触れないという人からは思い切り「うへぁ〜」な顔をされた。一方私は哺乳動物の実験に携わったことが無かったので、転職を機にどうやらマウスをやることになりそう、となった時に虫も動物もやったことのある人に「どっちが抵抗が薄いものか」と尋ねたことがある。彼女いわく「命を取るのはどっちも一緒」。まあ、そうよね。「ただ…動物はねぇ…あいつら鳴くからな」そうか、鳴くのか…それは地味にキツそうね。二人で顔を見合わせ、うへぁ〜となったものであります。
そんな私も今はマウスを使った癌細胞の研究に従事しています。ガンに必ずなってしまう遺伝的形質というものがある。その因子を持った人は他の理由で死なない限りは十中八九、ガンで命を落とすことになります。遺伝が原因の病気は治療が困難。その人を構成する設計図そのものに最初から病気のプランが入っているのだから、運命といえばそれまでですが実に過酷な現実。その治療方法を模索するために動物を使うものの、それを指して「かわいそうだとは思わないの?!」という人は後を絶たない。私はこうした人達のかわいそうの本気度をつい疑ってしまう。それと言うのもかつて「動物好きだから、かわいそうで動物実験は絶対嫌なんです」と言って業務から逃げていたテクニシャンが、マウスの遺骸を保管庫に入れる時に嫌そうな顔をして「ぺっ」とゴミのように投げ入れたのを見た時から。彼女が好きなのは自分に懐く可愛い動物限定なのだと思い知った。そこに実験動物の死に対する尊厳は微塵もなかったのだ。
「殺すのはかわいそうだからなるべく生かしておきましょう」と言って目的もなしにマウスを狭いケージに閉じ込めて老衰を待ち続けた医師もいた。これはマウスの死に関わるのを避けているだけでしかない。彼女にとって、かわいそうなのは動物に引導を渡す自分であって、いつまでも役目を終えられない動物そのもののことは実はあまり頭にはなかったように思われる。年老いて皮膚病を患い、それでも放置され続けたマウスは私が職場を去るその日に静かに息を引き取っていた。最終業務にささやかなお葬いをしつつ、私はそのマウスの死に少し安堵をもたらされた。私の退職後に死んでいたなら、ここではゴミみたいにして捨てられていたかもしれないのだから。
さて、ガンの遺伝形質を持っているために子供が産めないけど、どうしても子供を産んでみたいという女性の話を先日、小耳に挟んだ。人は自分とは無関係と思っているものに対しては安易に「かわいそう」を連発するものらしい。その場は皆、一様に「産めない女性がかわいそう〜」との論調でしたけど、マウスを使った今の実験は将来、そうした人たちに希望の光をもたらすのかもしれない。でも動物実験も「かわいそ〜」なのよね?
とんかつ定食を食べる自分とは無関係と思うから屠殺場に向かう豚がかわいそうなように、医薬品に助けられている自分とは無関係と思うから動物実験もかわいそうで許せない。つくづくと「かわいそう」が醸す他人事感をいかにとやせむ。
私は産めないものを産みたいという人間のエゴについてその気持ちを慮(おもんぱか)りはしても、かわいそうとは思わない。それは運命なのだから。同様に私は病気を克服する方法を探求するために動物を使う人間のエゴに対しても、動物がかわいそうなんて言えない。当事者だからというのもあるでしょうが、ただ、ありがとうと感謝するしかない。そしてなるべく苦しませずに手際よく、とだけ考える。私が彼らにできる精一杯のことは、それくらいしかないのだ。合掌
それはまだ私が農学部で学んでいた頃。実習という名の強制労働に駆り出されて牛やら豚やらの世話に明け暮れていたことがありました。動物の世話自体は私にとっては楽しい経験だったのですが、糞尿まみれで文句タラタラな女子の一部が豚の出荷時にこぞって「かわいそ〜」の大合唱を起こすのが苦手だった。かわい〜の延長でかわいそ〜と人前で言わねばならぬ空気は女子の嗜みというものか。その都度、農場の先生が「ぶわっかもん!家畜は食べるために育ててんだ。こいつらにとっては食べてもらえないことが一番の不幸なんだ」と叱責するのがお約束になっていた。
その先生が事故で死んだ仔豚を両腕に抱いてたのを見たのは今も忘れられない思い出だ。先生は「かわいそうにな、お前は食べてもらえなくてかわいそうなことをしたな」と小さな声で仔豚に話しかけていた。先生が畜産を志した経緯は知らない。だけど動物を慈しむ人だったのは間違いないと思う。
私に動物実験の手ほどきしてくれた人は薬学出身の若いテクニシャンだったけれど彼女もまた「実験動物は実験のために生きているのだから正しい実験に使われないのは一番いけないことだ」と教えてくれた。そこには「無駄に生かしておくことも悪である」という厳しい哲学もあった。実際に動物実験の講習では、役目を終えたor役目を持っていない動物は実験室から速やかに退出させることが推奨されている。それはすなわち命を終えさせることに他ならない。ある意味、この開き直りのような「役目を終えさせる」という思考ができない人は動物実験そのものを受け付けないし、無理にやらせれば心を病むことにもなる。
動物実験の是非を語るのは実に難しい。私が講習会を通して得た結論は、避けられる方策があるなら極力動物を使わない実験を検証すること。そして決して無駄になるようなへっぽこ実験に動物を使わないこと。そのために動物実験をする者には入念な実験計画を立て、厳密な内容の書類提出が義務付けられている。(計画と書類提出は研究者の仕事で私は言われたことをやるだけですけどね)
動物実験経験者が経験した実験内容を紹介しあうと、必ず「うへぁ〜」という微妙な空気が蔓延する。実験中は平常心を保っていられても、改めて口にして説明すると言う方も言われた方も色々想像して「うへぁ〜」となってしまう不思議。経験者同士でもそうなのだから未経験の人に実験の内容を言うのは得策ではない。
でも言っちゃう。私の初めての動物実験は虫でした。低線量の放射線を当てて変異率を調べるというもの。染色体を取り出してジロジロ見る実験に従事していました。虫なんて触れないという人からは思い切り「うへぁ〜」な顔をされた。一方私は哺乳動物の実験に携わったことが無かったので、転職を機にどうやらマウスをやることになりそう、となった時に虫も動物もやったことのある人に「どっちが抵抗が薄いものか」と尋ねたことがある。彼女いわく「命を取るのはどっちも一緒」。まあ、そうよね。「ただ…動物はねぇ…あいつら鳴くからな」そうか、鳴くのか…それは地味にキツそうね。二人で顔を見合わせ、うへぁ〜となったものであります。
そんな私も今はマウスを使った癌細胞の研究に従事しています。ガンに必ずなってしまう遺伝的形質というものがある。その因子を持った人は他の理由で死なない限りは十中八九、ガンで命を落とすことになります。遺伝が原因の病気は治療が困難。その人を構成する設計図そのものに最初から病気のプランが入っているのだから、運命といえばそれまでですが実に過酷な現実。その治療方法を模索するために動物を使うものの、それを指して「かわいそうだとは思わないの?!」という人は後を絶たない。私はこうした人達のかわいそうの本気度をつい疑ってしまう。それと言うのもかつて「動物好きだから、かわいそうで動物実験は絶対嫌なんです」と言って業務から逃げていたテクニシャンが、マウスの遺骸を保管庫に入れる時に嫌そうな顔をして「ぺっ」とゴミのように投げ入れたのを見た時から。彼女が好きなのは自分に懐く可愛い動物限定なのだと思い知った。そこに実験動物の死に対する尊厳は微塵もなかったのだ。
「殺すのはかわいそうだからなるべく生かしておきましょう」と言って目的もなしにマウスを狭いケージに閉じ込めて老衰を待ち続けた医師もいた。これはマウスの死に関わるのを避けているだけでしかない。彼女にとって、かわいそうなのは動物に引導を渡す自分であって、いつまでも役目を終えられない動物そのもののことは実はあまり頭にはなかったように思われる。年老いて皮膚病を患い、それでも放置され続けたマウスは私が職場を去るその日に静かに息を引き取っていた。最終業務にささやかなお葬いをしつつ、私はそのマウスの死に少し安堵をもたらされた。私の退職後に死んでいたなら、ここではゴミみたいにして捨てられていたかもしれないのだから。
さて、ガンの遺伝形質を持っているために子供が産めないけど、どうしても子供を産んでみたいという女性の話を先日、小耳に挟んだ。人は自分とは無関係と思っているものに対しては安易に「かわいそう」を連発するものらしい。その場は皆、一様に「産めない女性がかわいそう〜」との論調でしたけど、マウスを使った今の実験は将来、そうした人たちに希望の光をもたらすのかもしれない。でも動物実験も「かわいそ〜」なのよね?
とんかつ定食を食べる自分とは無関係と思うから屠殺場に向かう豚がかわいそうなように、医薬品に助けられている自分とは無関係と思うから動物実験もかわいそうで許せない。つくづくと「かわいそう」が醸す他人事感をいかにとやせむ。
私は産めないものを産みたいという人間のエゴについてその気持ちを慮(おもんぱか)りはしても、かわいそうとは思わない。それは運命なのだから。同様に私は病気を克服する方法を探求するために動物を使う人間のエゴに対しても、動物がかわいそうなんて言えない。当事者だからというのもあるでしょうが、ただ、ありがとうと感謝するしかない。そしてなるべく苦しませずに手際よく、とだけ考える。私が彼らにできる精一杯のことは、それくらいしかないのだ。合掌
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