帰りの駅で藪から棒なヤギの家 小屋の中でくつろいでた |
このハイキングの経緯がまた妙なきっかけでありまして…私が流しのテクニシャン人生をスタートするきっかけになった最初の職場仲間に誘われたのが始まり。その職場は紆余曲折あって研究所自体が閉鎖に追い込まれて仲間は散り散りバラバラになったものの、声かけをしてくれる人物のおかげで10年以上もの月日がたつのに年に一度は同窓会と称して飲み会をする仲間になっています。
春先に行われた定例会で先生を囲んで飲み食いするうちに、その先生がおめでたい年に当たるという話題になり「それでは山男である先生を囲んでお祝いを兼ねた山歩きに皆さんで出かけましょうか」ということになったのがこの度の由縁。
まあね、蓋を開けてみたら参加人数4人という有様でしたが…。正直、私も猫が死にかけていたり、なんだりかんだりでそれどころではない状況だったのですが面倒な調整役を引き受けてくれた幹事さんを気の毒に思ったり、先生のお祝い企画なのに無碍にはできないという気持ちだったり、おつきあいってそういうものだろうと覚悟を決めて参加しました。したら幹事さんも土壇場で急用ができて不参加になってやんの、なんじゃこれ。
結局のところ会いたかった旧友も不参加。世話になった上司、ほとんど没交渉だった上司、イベントはいつも不参加の誰にも打ち解けない先輩、そして私。ほぼ親しい人のいない状況で遠路はるばる出かけての山歩き。なんじゃこれの嵐。なのにお世辞抜きにとっても楽しかったんです。人には添うてみよ、山には出かけてみよ、ですね。
秩父には縁のない私。高麗と書いて「こま」と呼ぶその土地の名を見た時に歴史ファンの自分が真っ先に思い浮かべたのは「コウライ」「コウクリ」。どうしてそんな地名になったのかしらん、と紐解いてみると実際ここは高句麗からの遺民が住んでいた場所だという。時に7~8世紀の頃。新羅や百済に追い落とされた高句麗国の王族なんかが畿内の親戚縁者知人(もちろん王族だと思うけど)を頼って流れ着き、畿内にはもう住む場所がないということで与えられた土地がこの埼玉の地であったらしい。
8世紀頃の埼玉にはそうした土地がいくつもあったようで、幡羅郡(深谷、熊谷)新羅郡(和光、新座)高麗郡(高麗、飯能)などがそうであったという、いにしえのお話。
考えて見れば太平洋の潮を制御する技術ができる前は日本海こそが港の要で、埼玉に大陸の風というのは意外なようでいて北陸伝いに南下して来るのは自然なことなのだなと感慨ひとしお、目から鱗。
などと土地や地形の薀蓄にも豊富な人と一緒に歩く山歩きの楽しいこと。土地感のある人と一緒なら「あっちに何がある」「こっち行くとあれがある」と迷う不安もなくて心強い。
川には星屑のような綺麗な花びらが流れてた |