いらっしゃいませ

にほんご べんきょう してきて ください
いらっしゃいませ。ずっと試運転中です。予告なく変更しまくるつもりが仕様変更については手付かずです。

2013年3月5日火曜日

虚仮の十年

我が目を疑う出来事
unbelievable things I've seen

 桶川ストーカー殺人 は個人間(民事)トラブルの解決の難しさを浮き彫りにすると同時に警察の信用を失墜させた事件の筆頭に挙げられる後味の悪い出来事。
壮絶なストーキング被害に合いながらも警察からまともな対応をしてもらえず、その末に殺害された女子大生。事件後、警察は自らの失態を隠すために被害者は遊び人という印象操作を行っており、金銭トラブルを巡る痴話喧嘩ゆえ民事不介入という判断をした、という流れを作っていた。今回、事件の詳細を読み込まなければわからなかったことだが、そうした経緯で出た情報を私は今まで鵜呑みにしていたことになる。傷つけられた命と名誉を思うと、なんとも痛ましく胸が苦しくなる。
ストーキングが殺人事件に発展した後も警察の捜査は進展せず、最終的に犯人とその関係者をあぶり出したのは写真週刊誌の記者だった。「被害者は小松(犯人)と警察に殺された」と証言した友人と、執念で事件を追った記者の存在がなければ今もこの事件はウヤムヤのままだったかもしれないのだ。

あれから十年も過ぎているというのに、告訴や被害届を受ける警察の態度は今も(平成24年8月時点)そう変わりばえがない。被害届の受理を地元警察はとにかく全力で拒否してきました。世の中にはキテレツな内容で警察に近隣トラブルの話を持ち込む困った輩がいることは承知しています。それら全てに対応しきれないことも重々承知。精査して、ある程度の門前払い機関?は必要なのでしょう。しかし私が問題に思うのは、はなから話を聞く気がない態度。これは困る。話を聞かずにどうやって精査するのでしょうか
桶川事件の概要をいろいろ読みあさる中で、若い職員がストーカー被害について告訴を受理しようとした所、年配職員にどなりつけられていたという記述がありました。似たようなことが昨年、私の場合にも起きています。
諸般の事情から専門家の話(法テラス、犯罪被害者相談窓口、法務局職員、警視庁職員他あわせて5〜6名の専門家による判断)を受けて、ある事件をきっかけに私は地元警察に被害届と告訴状の提出を願い出ました。その時のこと、私の話を聞いている職員の横でカチョーと呼ばれる人物がたえずウロチョロして話に入ってくる。犯罪の核心部になるとカチョーはすっと消えて、しばらくすると再び戻ってくる。カチョーはロクに話を聞いてないのに「これは事件にならない」「これは受け付けられないんですよ」と私に帰るよう促す。普通の人なら警察からそう言われたら常識的に考えて引っ込まざるを得ないものですが、前述のようにこのカチョーが話を聞いていなかったこと、そして予め専門家の後押しも得られていたことから私は決して引き下がらなかった。まさに虚仮(こけ)にされていたのだが、どうにか一念を貫き通した。とはいえ、これはとても消耗する作業だったし、これでヨカッタかどうか甚だ疑問。お陰で私は所轄の有名人になってしまった予感がするから(- -;)

アメリカの中古車屋で車を買い叩いた経験のある方はお分かりでしょうか。客を逃さず、しかしあまり値切らせないために接客は飴とムチの役を交互に配するのがアメリカの中古車屋セオリー。その時の経験が甦って、私は密かにこの二人にMr.キャンディとウィップ課長というあだ名を付けていたことを備忘録として記す。ウィップ課長は被害届の提出を諦めない私に手こずって、かなりトンデモな問題発言を残している。もちろん詳細な記録は残しましたよ。今回の経緯はきっちり本にでもして印税稼ぐつもりでいましたので。(←そう思ってないととても凹んで潰れそうだった /_; )
録音していたわけではないし言った言わないの水掛け論になるから、これでどうこうする気はないけどT課長の発言を私は絶対忘れませんし、地元警察の対応の記録は犯人が落としていった情報とまとめて全て安全な場所に預けてあります。私が殺されるくらいの事件が起きようものなら、それらはしかるべき方法で外に出ると思うのでそこだけはご了承ください。それくらい今の私は殺された後の用意をマジで整えてます。

と、犯人と警察にドン・キホーテ(ラ・マンチャの方ね)並みの牽制をしつつ、被害届けの不受理に苦しんでいる全国の犯罪被害者の方々へ有益な情報を。
2012年8月9日付けで警察庁長官より通達。これによれば
被害届は全件、警務や総務等の管理部門にて即時受理し署長らが管理すること
と、なっています。 参照リンクはこちら 
(以下、赤文字は江戸川コナンの声でお読みください)
おやおや〜変だな〜。去年すったもんだしてる間に8/10にも地元警察に出向いて届け出たのに、その時もその後も受理を拒否られたよ〜。どうしてなの〜毛利のおっちゃん。

うちんとこの警察は警察庁の通達を飛脚が運んでいるっぽい。おかげで全国の警察とは微妙に時差を生じるらしい。と、つとめて好意的に解釈しようじゃないか(震え声)
最終的には証拠保全について問い合わせた先(警視庁)の方が親身に話を聞いてくれた上で地元警察と円滑に話ができるよう知恵を授けてくれ、さらに直接何か口添えまでしてくれたようで届け出から一ヶ月以上たってようやく被害届を受理されました。心を砕いて一生懸命にやってくれる警察の方がいたことも念のために記しておきます。失言を繰り返すカチョーの横で身を堅くしながら良い方策がないか考えあぐねていたMr.キャンディーにも感謝しています。私と上司の板挟みにしちゃってゴメンね。

不受理に関しては色々な見方もあるので公平性を保つためにも以下のリンクも参照ください。
知恵袋  警察は被害届を実害が出ない限り受理しませんが、なぜでしょう 
届けを出す方も受ける方も、真摯に向き合わないとダメということでしょう。

2013年2月26日火曜日

いつでも夢を

左足元に子供が寄り添う珍しい狛犬
隠岐の島にて
 音羽幼女殺人事件 は、発生当時「お受験殺人」として世に浸透した事件。受験に絡む母親同士のいざこざから二才の子供が殺されたとして注目を浴びたが、裁判が進むうち事件は別の様相を呈しマスコミでの名称は途中変更された。公判記録を読む限りでは、被告から一方的な念をぶつけられた被害者家族という印象を受ける。
しかしどうした事かこの事件は被告の生い立ちや境遇に対する同情、小さい子供を抱える母親が共通して持つ閉塞感に焦点が当てられたために、悩める母達の共感を集めてしまった。やがてその共感は「被害者側にも落ち度があったのでは」「被告をイジメてたんでしょ」等のいわれのない中傷を被害者側に浴びせる結果となった。

公判を読む限り詳細は以下のようである。
人付き合いの苦手な被告にも屈託なく声をかける性格の被害者の母。被告は華のある被害者母に傾倒し交流を持つが、やがて上の子の幼稚園入園を期にバランスが崩れはじめる。被害者母の交友関係は広がる一方で被告には新しい友人はできない。屈折した気持ちから被告は被害者母を嫌悪して避けるようになり、当然の帰結として両者の関係は疎遠になる。すると被告は今度は憎悪を募らせ始め、被害者母に対し異様な執着をしてその交友関係(これが主に受験関係だったのか?)に追従するようになる。この好きでもないのに必死についてまわる様子が端から見たらヘンな関係に見えたことは想像に難くない。
同じ幼稚園に子供を通わせてただけの張り切りオバサンがTVに出張った時期もあったそうで、こうした人の無責任な発言から被害者母に対する妄想を含んだ批判は起きた。いわれなく娘を殺され、身勝手で言いがかりでしかない犯行動機を被告から聞かされた被害者母の事を思うと暗澹たる気持ちになる。その上、無関係な人達からの心ない中傷。これほどの不幸があるだろうか。ただ黙して子供の冥福と被害者一家の平穏で暖かな日々を祈る他ない。

事件に巻き込まれたことのない人間には想像も及ばないことでしょうが、やられる時というのは本当に何の落ち度がなくっても、何のいわれもなくっても、まったくもって理不尽にやられてしまう。そういう性質の事件もゴマンとあるんです。それを理解してくれる人の存在が何よりも被害者の心の支えと癒しになることを私は知っています。被害者の落ち度を憶測する無責任な害や、おっと誤変換、外野が存在する一方で、苦しく理不尽な目に遭ってる状況を理解してくれる人達もまた必ず存在する。命さえ長らえれば悪い夢ばかりでなく、良い夢だって見られます。凹んで気落ちする時も、どうせ見るなら良い夢も見ましょうぜ。
前回書いた父が巻き込まれた傷害事件ですが、一地方で起きた小さな事件扱いだったにもかかわらず一度だけワイドショーで取り上げられました。ご丁寧に父宅まで取材クルーが駆けつけ、定石通りそこに張り切りオバサン登場!「いちゅかこぅなると思ってたんでぃすよぉ〜」とモザイクかけて変声で話してました。交流もない父や犯人のどんな事情を知り得ていたのか皆目見当つかないですが、この人、近所でも有名なトラブルメーカーだった。モザイクかかっていても近隣の人達からは「またアノ人は…」と長く語り草にされていたことも追記しておく。
TVにコメント出してたのはこの人だけ。節操のない人は何処でも出張って話をするし、節度ある人の大半は知らない事わからない事に対しては何も語らないものだとその時に知った。
だから、というのでもありませんが「死人に口無し」にされる前に何が起きていたかを周囲に知っておいてもらうことも必要と思いました。ネットとリアルをリンクさせる趣味を今まで持たない私でしたが、打てる時に打てるだけの手を打っておこうと暗中模索。

2013年2月19日火曜日

夏の夜の悪夢

dancing in the sky
自由な空へ!
 松本サリン事件 は、地下鉄サリン事件(生物兵器テロ)と並んでカルト集団オウム真理教が市民を標的に行った最悪の犯罪。事件の概要はリンクや検索で読んでいただくとして、リアルタイムの報道でその面妖な事件を見た私の感慨を書き記す。
ある夏の夜のこと、異臭発生とともに松本市の裁判所官舎周辺住民が体調を崩し死者まで発生する騒ぎが起きた。ほどなく容疑者としてマスメディアが取り上げたのが、家族共々被害を受け第一通報者となった河野さんだった。運悪く自宅に農薬を保有していた河野さんは警察から何度も取り調べをうけることになった、と聞いている。そこから彼は憶測だけで情け容赦ない注目を全国から浴びる事になった。
不可解で解決の糸口のない事件の真相を早急に解明してスッキリしたい人々の欲求が「犯人はこの人以外、考えられないでしょー」という空気を作り出した。私は報道番組で弁護士とともに身の潔白を表明する河野さんの記者会見を見て戦慄したことを今もはっきり覚えている。
河野さんの態度は毅然として話の内容も理路整然。激昂することなく誠実でしっかりした人柄をあらわしていた。「もしこれでこの人が犯人ならトンデモねー大嘘つきの大悪人ってことだし、これでこの人が犯人じゃないなら…」と言いかけて絶句した。この人が犯人でないのなら、今、この人が置かれているトンデモねー状況って一体!我が身に置き換えて、もしこんな状況に置かれたなら私はここまで毅然とした態度を貫けるだろうか。というより正気を保っていられる自信も持てない。
その後の顛末は皆様ご存知の通り。嫌疑はうやむやのまま世間の目は他の事件をおいかけ始め、オウムのさらなる悪辣な犯罪が明らかになるまで河野さんは怪しい人の汚名を着せられたまま放置された。世間は無責任に忘れ去ったとしても、不名誉を晴らせぬまま生活してゆかねばならない、そのあきらめと煩悶の入り交じる日々を思うと胸が痛む。(被害に遇われ意識を回復することのなかった奥様に、河野さんは誰を恨むことなく長年寄り添い続けた事もここに追記する。それは並大抵のことではない)

身内の話を晒すのは本意ではないが、私の父も以前、事件に巻き込まれたことがある。精神的に不安定だった人物から首に刃物を突き立てられた父は無我夢中で抵抗の末、犯人に大怪我を負わせてしまった。これは明らかな正当防衛だが、目撃者のいない事件だったために殺意の有無を調べるとの名目で、父は殺人未遂の容疑で連行されてしまったのだ。(こんな事ってあるだろかと驚嘆したが、事実起きた。)
警察署長の娘として育った母は「それが警察の仕事だから仕方ないわよ」と淡々としたものだったけれど、父の話が本当ならかなり問題のある自白の強要を受けていた。父の性格からいって毅然とした態度には程遠かった様ですが(^^;)不正行為ギリギリ?の取り調べに対して恫喝ギリギリ!?の抵抗で反撃の上、しまいにゃ憤死寸前の昏倒。こんだけ興奮しちゃう人間なら無我夢中だったというのも本当だろう、と言う結論に達してようやく容疑は晴れた。しかしイヤモウ本当に災難。

ウソをつき通して裁きを逃れる人間がいてはならない。だからこそ厳しい追及は必要。しかしそのために理不尽な状況から身も世もなくし、やってない犯行を「自白」させられてしまう人が居るのも周知の通り。
人は思いもよらぬ出来事に直面した時、その対処には実に強靭な精神力が必要になる。身が潔白であれば恐れることはない、と信じて疑わなかった私ですが、身が潔白であればこそ歯痒さと不本意さで正気を失うことになりかねない。
昨年、我が身に降り掛かった厄災から、世の中が思ったほどには単純明快でないことを学んだ。色々と思う所もあり、その件について書く気持ちが芽生え始めました。捜査継続中なので全て詳細を書くというわけにはいきませんが、今後は事件簿シリーズとして書き残したいと思っています。大げさな、と笑われるかもしれませんが、命の危険を感じる出来事が実際に起きているので、これはいわば遺言のようなものです。あるいは警察とのやりとりの中で疲弊している全国の犯罪被害者の方々への励ましと応援。そんな感じで。
とか書くと、犯人と警察の両方からマークされちゃうのかしら、私 f^^; )

2013年2月8日金曜日

帰蝶のゆめ

思いがけず前回の続きです。
let the cat out of the bath
まどろみの猫
私のブログを見つけたと思しき人物に対して「その人のこと好きじゃない」という発言は、その人が本当にこのブログを読んでたとしたらあんまりなんじゃない?という指摘をネットの私とリアルをリンクして知る人物から受けました。
言い訳ですけどあの話の肝は、人物特定することで互いに一挙手一投足に深読みや疑念を抱くくらいなら共に曖昧な状態でネットに向かい合う方が精神的にもいいんじゃないの?という呼びかけ。該当人物が本当にここを読んでいるのなら、荒っぽい方法ですが多少はギクリとさせながらの牽制球。だって何度も聞いてくるんだもん。実生活の話でも本人がはぐらかしてる話を何度もほじくり返すのはマナー違反ですぜ。それはつまり遠回しに「あなたには関わりのない話ですよ」という意思表示をしてるんだからさ。と、あの日言えなかった言葉をブログで言うよ f^^;)

例えて言えば
社食で友人に自分の彼氏の話をしてたとする。その後、別の場所で社内のさして親しくない人物から「ねえ、◯◯業界の彼氏がいるんでしょ?」と聞かれるシチュエーション。相手との関係性によるけれど、知らせる必要がない話というのはある。ただし社食という公の場で話をするからにはそれを誰かに聞かれて「あの人、彼氏居るみたいだね」なんて話を仲間内でされる分には、それに目くじら立てることはできない。ネットの発言ってこれっくらいのスタンスじゃないかな?と今回の事で考えました。

フォローしときますが、その人物のことはキライじゃないです。やんわり否定したことを再度聞かれちゃう事からも推して知るべしですが、波長が合わない所を指して苦手=好きじゃないと評しました。(←少しも何の慰めにもなっとらん)
でも実際問題、お互いに波長がズレる人は普通に存在します。ムリに合わせる必要もないし、かといって面と向かって「合わないね〜」という必要もない。それが現実社会。その面と向かって言わない部分をいとも簡単にあらわにする特性がネット社会にはある。「好きじゃない」と言われること自体、あまり嬉しいことではないのに「好きじゃない」と言われている自分を他の人の目にも晒す結果にもなる。
社食に置き換えれば「あの人のこと好きじゃないんだよね〜」と根回しチックにふれてまわってるようなもの。今回そうした視点が私には欠けていた、と遅ればせながら反省。同時に「コレは自分のことではないわ〜」と思う耐性もやはりネットには必要だなと再認識。あくまでも相互ファジー推奨。ご都合主義ですが。

自分の発言を不特定多数の目に晒す、という意味においてブログ発信も社食(あるいは公共スペース)での井戸端会議も同じ。他愛ないおしゃべりといえばそれまでだけど、やはり限度を越えたものは周囲を不快にさせるし顰蹙もかう。
Twitterで見かけたマザーテレサの言葉から抜粋
思考にきをつけなさい、それはいつか言葉になるから
言葉にきをつけなさい、それはいつか行動になるから
行動にきをつけなさい、それはいつか習慣になるから
習慣にきをつけなさい、それはいつか性格になるから
性格にきをつけなさい、それはいつか運命になるから
ネット弁慶(あるいはネット上のペルソナ=人格)なる言葉もありますが、思考を大げさな言葉で書き散らすうちに、いつしか行動まで怪しくなる人が確かにいます。虚像と実像がおかしな形で融合して不幸な事件に発展することもあります。ネットの自分とリアルの自分。どっちが本当の自分を表現していて、どちらが夢か幻か。はたまた全ては胡蝶の夢か。
私の答えは単純明快。どちらが夢であってもその夢を見たのは自分自身。結局、ネットも社会の一部。ネットなら匿名でなんでも言っていいなんて思うのは間違い。かたや、ネットでされた発言なら何でも聞き出していいと思うのも間違い。
つきつめて、人付き合いは思いやり、ということですかいのぅ。

2013年2月3日日曜日

ネット下天は夢か

let the cat out of the bag
猫の森には帰れない
ある小説家(の友人)から聞いた話ですが、作品を発表すると「アレって私のことでしょ〜ぅ?」と思いがけないことを聞いてくる人が少なからず居るとか。だからその小説家さんはインスピレーションの元になったモデルが居る場合には予め「フィクションだけど名前は使わせて」と一声かけて作品を書いているそうだ。逆に名前が違っていればその登場人物は自称本人の方々とは無縁の人物、という印。

一方、こちらは人気ブロガーだった私の友人の話。身内が仕事で貰って来るセレブなパーティーや新作発表会等の招待券を頂戴して出席してはブログにその様子をアップしていた。彼女は積極的にウソはついてないものの、訪問者の質問をはぐらかす事でブログ上ではセレブ奥様として認知されていた。ランキングも常に上位を占めてた彼女は素直に喜び、現実の友人にもブログを宣伝し始め、虚像と実像の違いを知る私達をドキリとさせた。その事を冗談まじりに仲間一堂でたしなめた折、立場を取って代わられた形の身内の方もその場にいたのですが、その人いわく「ブログってみんながこうやってフィクションを書く場所なんだと思ってた」と達観したように話していたのが印象に残った。

さてさて、事実をぼかして書くスタイルをとっているという点では私のブログもある意味フィクションかもしれない。プロフの写真が猫の段階でかなり妖しい (^^;) 。本名、住んでる所、着てるもの、食べてるもの、事実をありのまま書いてリアルの友人知人にさらけ出すスタイルを好む人と、それを好まぬ人とが共存しているのがネットの世界。私自身はどちらかといえば後者。悪意ある人間が紛れ込んだときにとんでもない事が起こる危険性を認識しているから常に細心の注意を払う。ネットワークに繋がるというのはそういう事だと思っている。ネット人口が急激に増えた今となってはこれは古い思考なのかもしれないけれど、こればかりは嗜好と志向の問題なのでいかんともしがたい。

ではここから本題。リアルの知人で私に「ブログやってるでしょ〜〜」と何度も聞いてくる人がいる。私はブログでウソを書く気はないし、いつ誰に正体を知られても恥ずかしくない発言を心がけてたつもりなので、ネット上の私と遭遇するリアル知人がいたとしても何の問題もないとずっと考えていた。しかしいざ、本当にそういう局面に到達した時「yes! これが私」と言う気分にはとてもなれなかった。その人のことをあまり好きじゃないからという事もあるけれど、そう!これ!これですよ!!この記事読んで「あ"〜!私のこと好きじゃなかったんだー」とか思いたいんですか、あなたって人は f^^;) 。
つまりね、冒頭の小説の話のように本人特定なんて誤解でしかない場合も多いんですよ。明言を避けている限り「そうかもね〜、でも違うかもね〜」くらいの眼差しで見るのがちょうどいいんだと私は思います。書くときも読むときもそういう視点でいる位がいいんじゃない?先の知人は別人のブログを私のものと勘違いしてることも有り得るし、または無関係の人がコレ読んで人知れず思いがけないショックを受けてるかもしれない。思い込みって現実世界でだってそうだけど、誤解だけで一喜一憂することになりかねない。「私のこと言われてる」と読んで凹むのも「誤解されちゃうかも」と気遣って書くのもどちらも面倒クサイし不幸な話だ。何が言いたいかといえば、本人が明言しないことを詮索するのはやーめーれ。

ブログをやっていることを肯定できなかったのにはもう一つ理由がある。昨年、私の実名と個人情報をネットにアップする、いわゆる「なりすまし事件」があった(現在警察が関連事件を調査中なので詳細はまたいずれ別の機会に)。名乗りを上げて明言してるブログがあっても、こんな風に本人宣言そのものが真っ赤なウソなんて場合だってある。
私のブログを見〜つけた、てなこと匂わせて話しかけてくるその知人に「どっち見たの?」とかまさか聞けるわけないじゃん。ホント、ややこしや。